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2012-11-01

松岡正剛さんは、読書は無知から未知へと述べている


ブログを書きはじめてから、3年になる。たんなる自己満足ではあるけれども、この間書きつづけたことによって、自分で自分を対象化して、内省的により生きられる、新しい自分の世界を、見つけられたような気がしている。

 

つまり毎日が、書くという行為によって、何とはなしに日々の日常が新鮮に感じられるようになってきたのである。これは思わぬ、極めて個人的な喜びというしかないもので、ひたすら自分自身と、オーバーに言えば日々対話しながら、雑文が紡ぎだされるので、意外な言葉や、文章が浮かんでくると、何故か楽しく、よって続けられているのだと自分では理解している。

 

明らかに、年齢もあるかもしれないが、企画をすることや日々の暮らしの中で、どうしても生じるストレスのようなものが、書くことによって洗い流され、自分のなかでのバランスがとても良くなるのである。つくづく自分という存在は、日本語という言葉で、考えたり感じたりしながら生きているのだということを思うのである。

 

それから、書くということによって、他者が書いた日本語のあらゆる文章が、より意識的に読めるようになってきたのである。これもブログを始めたことによる効用で、これからの晩年ライフ、生活に追われ読みたくとも読めなかった日本語の素晴らしい古典本を、ゆっくり読みたい私としては、書き続けてきたからこそ、だと思うのだ。

 

それにしても、この年になってますます自分自身が、お恥ずかしいほどに無知蒙昧であるということを、思い知らされている。私がかってに自分の先生の一人だと考えている、松岡正剛さんの書物などを読むと、ひとりの庶民の日本人としての最低レベルの、基本素養さえ、おぼつかなさを感じてしまうのだ。

 

気づいたところから始めるしかないのだが、来年からはこれまでの人生で最もほしかった自分の時間が42年ぶりに増えるので、これからは学ぶ(読む)ことに、重きを置いた生活を取り戻したいと思う。なかなかままならずとも、知的胆力をつけるには、それしかない、書物を読むほかはない。

 

ところで、昨日から中野孝次訳による鴨長明の方丈記を読み始めている、800年くらい前の日本人が書いた、ほとんどの日本人が書き出しくらいは諳んじていて、今も読み継がれている書物だ。

 

ようやく、染み入るように読める。静々と秋も深まり、満月の夜、長明さんと通いあえる、生きていればこその、なにもないなにもいらない時間の過ごし方である。

 

 
還暦になり初めて読んでいます

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