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2012-11-15

遊心塾・ささやかに熱く始まっています

妻が作ったガーデンの椅子とテーブル

また陽が登りお休みの朝です。昨日夕方、土取さんから電話があり、いよいよ11日後に迫った、邦楽番外地に関することで、最終的な確認の打ち合わせをしました。土取さんは前日の24日(土曜)から岡山にやってきます。本番の前日のわずかな時間ではありますが、共に夕食をします。もしこのブログを読んでいてくださる方で参加したい方がいれば、20日までに連絡ください。先着5名まで受け付けます。電話でも、メールでもかまいません。

 

さて、このところ、遊心塾に関して全く書いていませんが、ささやかに続けています。ほとんど宣伝していないのですが(私の案内で参加を希望された)今生徒さんが二人(女性)いまして、12月まで、毎週木曜日の午後2時から、玉島まで出かけて教えています。シェイクスピアの間違いの喜劇の、登上人物の台詞を声に出して読む訓練を繰り返して読むことを、集中してやっています。

 

思い切って参加されたIさんは、どんなことをやるのかいささか不安だった様子でしたが、10月から、熱心に来られています。私も30年ぶりくらいに声を本格的に出しています。少人数なので、共に声を出すのです。普段の生活の中では先ず出すことはないような台詞を声に出すのですから、それもあたかも自分が、その人物になりかわった気持ちで、その感情の襞を、探求しながら声を出すということは、初めての方にとってはかなりの冒険です。

 

私の指示で、同じシーンを繰り返し声に出すのですが、少しずつ声が体と心をほぐし、出なかった声が徐々に出てくるようになってきます。これが人間の不思議なところで、自分で自分の中に眠っている思わぬ自分の声に気づくようになってくるのです。

 

声に出すという行為と、黙読という行為は、全く異なります。ましてセリフを声に出すということは、初心者にとっては大冒険であると思います。私が遊心塾をやりたい一番の理由は、無心に声を出すということの喜び、快感を(可能なら10人くらいで)知ってほしいからなのです。自分の身体が声を出す楽器であるということを、自分の身体を通して感じて、いま現在の生を、輝かせてほしいということに尽きます。

 

私が演劇的な、つまりライブ感に限りなくこだわるのは、一回性のその瞬間だけの、その人に与えられた生の時間を、限りなく全意識を集中するからこそ出てくる声というものがあるわけで、その時間を、共に共有する豊かさを(自分の身体さえあれば出来るのです)、これまでの経験で学んできたからなのです。

 

今日も3人で声を出します。全ては生徒さんの魅力に、指導する私は左右されます。さあ、今日はどのような声が出てくるのか、その時間は、未知の時間です。

 

 

 

 

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