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2012-11-12

平凡な暮らしに非日常を見つける喜び


ふと気づけば、毎日ではないにもせよ、3年以上ブログを書きつづける自分がいます。晩節になって新しい楽しみを見つけられたことは、ことのほかに書きつづけられている自分にしかわからない、ささやかな自己満足的な喜びがあります。

 

小さいころからじっとしていることが出来ない子供だったので、父親は中学の3年間、自ら剣道の竹刀を持って、少しは落ち着くようにと私を鍛えてくれました。その経験は、いまだ私の心の奥底に素晴らしい経験をさせてもらった時間として残っていますが、まさか父親も晩年の私の姿は、想像もしていないかもしれません。だんだん父に似てきている私がいます。

 

最近じっとしている(精神は活発に動いている)ということの喜びというようなことが、かすかに感じられるようになってきたのが不思議です。もちろん若くはないのですから、身体が動かなくなっているということも物理的な事実としてあるでしょうが、そういうことではなく、動いてはいるのですが、動く範囲が極めて狭い中を、過ごすということです。

 

PRとか、人に会うとか、教えるとか必要最低限動いたら、ほとんどの時間を家か、図書館か、本屋か、電車の中で過しています。今の生活の中での自由な時間の7割は学ぶということにあてているのが、この数年の私の生活です。それくらい私は、自分のあまりの無知ということに対しての気づきがありまして、知るということの悦びは、何事にもまして今の私の生活の中では優先しているのです。

 

フルに働く仕事をやめる決心の一番は、やはり時間です。ご飯を食べるように、書物に触れる時間というものは、人間らしい精神生活を営む上では、私にとっては手軽でもっとも不可欠のものであるという結論に達したのです。

 

私は、しゃべるほどには書くことも読むことも遅いのですが、これまでは読むのが億劫であったような書物が(難解な語彙に満ちた哲学書や、特に時代の中で読まれ続けてきた古典)ようやくにして宝物のように感じられるのです。

 

宝物なのですから、ぶつかって味わいつくさなくては、もったいない。松岡正剛先生も、同じ本を繰り返し読むことを薦めておられます。汲めどもつくせぬ枯れない永遠の真実が、古典にはぎっしりあるということで、そういう意味で、若かりし頃ウイリアムシェイクスピアに、巡り合った私は、幸せだったと思います。

 

じっとしていることにつかれると、犬のメルと散歩にでかけ、ついでに身体を動かします。
下の娘が作ってくれたローストビーフとニンジンのスープ

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