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2022-03-06

ウクライナの悲惨な状況報道からささやかに思考する五十鈴川打より。

起きて間もないが頭が新鮮な内になにか綴りたい。報道によればウクライナ🇺🇦から国外に逃れる 避難民は100万人をとうに越えたと言われる。老いた頭で床のなかで、77年前北朝鮮🇰🇵から姉当時3才、兄6ヶ月とともに、平壌の隣の新義州で教師をしていた両親は、家族4人でまさに命からがら、生還した。

その状況がどんなものであったのか、私は老いた頭をフル回転させて想像した。野坂昭如さんは飢えるということの恐ろしさを、繰り返し作品かし、終生語り続けておなくなりになった。非常時は、普段おもてにはでない人間の動物性というほかはない、鬼畜性が現れてくる。

極限状況におかれれば、否応なく自分では制御しきれない、悪魔というしかない面が、私を含め現れてくるのだろう。だからそういうこれまでの、アウシュビッツや強制労働所などでの歴史の証人が伝えて続けてきたことから、学ぶ努力を怠ったら、まずいと自分に言い聞かせるのだ。もっと悪い悲惨な出来事が出来しないように、ささやかに考え続け、折々のことを発言する勇気を持たないとまずい。

昨日妻との散歩、穏やかな春がきてほしい。

五十鈴川だよりをうちつづけながら、思考したい。首都キエフのスーパーにはは食料や水がほとんどない状況が映像で伝えられていたが、戦後の豊かさの大部分を生きてきた私には飢えるという生き物としての感覚が極端に弱まっている恐ろしさをどこかに感じている。

この感覚は私より若い方々にはもっと遠い感覚なのかもしれないが、一旦、戦争のような非常事態が出来したら、どのような悲惨極まる阿修羅のような状況に、あまねく弱い立場の人たちがいの一番に置かれることを肝に命じておく必要がある。とくに赤ちゃん子供、高齢者、ハンディのある人、お金のない人、生まれつきからだの弱い人等々に。

かくも戦争は人間を、攻守を越えて人間を魔物かしてゆく。その事の真実のあまりの惨さは多くの書物に刻まれ伝えられている。エカテリーナさんの音楽会が開かれる3月10日は、先の大戦、東京大空襲で、一晩で10万人の人々が殺された日である。母の命日でもある。

国家とはかくも大義の幻想的暴力装置を抱えている。どのような大義があろうとも、戦争の悲惨さを体感、経験している方はいけないと発言しているが、ほとんどの方が高齢化し、発言に耳をかた向け、実感が伝わる世代は少なくなっているかのように報道されるが、私はまったくそうは思わない。

我が娘たちは、私の企画者としてのアクションに理解を示してくれている。人間ほとんどの人は家族や身近な人との生活が無事に送れればそれで足りるのだと想う。いかなる不毛な言葉をもってしても、国家の大義があろうとも、人間同士が殺しあう愚だけは避けるのが、人間の在り方、良心であるとの側に私は立ちたい。

食べ物と寝るところがあり、家族があれば多くの人間は足りるのである。足りないというきりのない欲望幻想をかきたてるお金資本主義とはおさらば、かきたてない静かな新しい資本主義こそ、私などは期待する。穏やかな資本主義にシフトしないと、もうすでにこの惑星は相当に痛んでいてこのままでは人類の行く末はあまりに暗い。

おびただしい戦車やおぞましさに身の毛もよだつ、クラスター爆弾や打つのも嫌な気化爆弾、等の武器を作る人間の正気を疑うと、おなくなりになった中村哲先生は著書に書かれている。

同じ惑星にたまたま生まれ合わせたもの同士、この惑星の存亡の危機が迫っているこの時代、同じ人間同士が殺しあいなどやっている場合ではないのだと、ごまめの歯軋りのように五十鈴川だよりを打たずにはいられない。


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