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2022-03-27

チラシ行脚に出掛ける前の五十鈴川だより、3月27日の朝に想う。

8時間熟睡して目が覚めた。チラシが出来て早速動き回った疲れがたまっていたのだろう。くどくど長々打っている時間はないが、昨日雨のなか9時前には家を出て、人に会い、新聞社三社にチラシを配布、お休みだったがNHKにも持っていった。

午後は、取り急ぎ早急にチラシを送らなければならない人に、20通一筆いれて郵送した。郵送したあと、賛同カンパを寄せてくれた県外の友人知人の方たちにチラシを送るべく宛名書きを数十通書いたりして、ほぼ一日を終えた。

手書きで、数行であれも字を書いての、昭和男の作業なので、この超音速デジタル時代に何をやっているのかと,思わないでもないが、いいのである。今現在の私のやり方で、気持ちのいい、気持ちが落ち着く老いの方法を私は見つけたいのである。

人生は長くて、実は短いあっという間のたまさかの夢の出来事であるやも知れぬ。ならば夢の中を歩くかのように、チラシ行脚をやりたいのである。祈祷して歩くかのようにチラシ配布する。手渡し、これが私の企画の原点、もっと打てばこれをやれなくなったら、次の世代にバトンを渡し、私は宇宙の摂理に帰るのである。

ともあれ、今日はチラシ配布にはいい日和ではないかと想う。貴重な日曜日なので、五十鈴川だよりをうち終えたら、チラシ配布に出掛けようと思っている。犬も歩けば棒に当たる、と言う言葉をどこかでわたしは信じている。チラシは誰かが持ち運び、想いを伝えながら動かなければ、ただの一枚も眠ったままに置かれ行く。

長い付き合いの友人から送られてきた

娘たちが創ってくれたチラシを、配布する喜びの春が古希男に訪れるなどとは思いもしなかったが、思いもしない意外性に満ちた春、理解不能な戦争の春を迎えることになろうとは。喜びの背後に戦火を生きる、生きざる終えない人々の条理なき痛みが、古希男を動かす。

絶対矛盾の春である。もし我が身にこのようなことが起きたらとの、かすかな想像力を我が足に伝え、チラシを配布したい。人間は痛みも忘れる。忘れられるから生きて行けるとも言える。だが私は無数の死者たちの無念のおもいを忘れず、伝える側にこれからの人生を歩むつもりである。

そのはっきりとした確信が、10年ぶりの企画者復帰になったのだと念う。いまは理屈よりアクション行動の時である。

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