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2019-06-04

一昨日シェイクスピアの輪読会に参加されたN氏と長ーい昼食、談論風発、愉快なひと時を過ごしました。

一昨日の輪読会の後、ちょっと遅くなったが同年代の男3人で軽く飲みながら昼食をした。T氏は短時間で退座、残った私とN氏とで話が盛り上がり、思わぬ長時間の昼食となった。

結局、場所を二度ほど変え、夕方まで飲み語り合った 。量は大したことはないのだが(ほんとうに外でお酒を飲まなくなった。もうこれまで十分に飲んだし、飲んで語り合いたい知人も少なく、そのような時間も、いまは私にはもったいないのだ)N氏とこんなに話が続いたことが我ながら意外だった。

氏とは正直これまで、二人きりで語り合ったことは一度もなく(短い時間ならあるが)氏のことに関しても、映画に関して詳しく、一家言ある方である、というくらいの認識しかなかったが、どこかに誠実なぶきっちょな性格が匂っていて、お会いするたびに好感を持っていた。

そのような方が何故か、私の思い付きシェイクスピアの輪読会に3回連続して参加してくださったそのことに、私はある種どこか感動していたのである。

古希(推定するだけ年齢はどうでもいい)近くの体で、おそらく普段聲など出してもおられない身体を押して、参加してくださったその事実に、どこかで私は打たれていたのである。

人間何をするにしてもエネルギーがいる。がシェイクスピアの輪読はやってみればわかるが、ことさらの集中力、持続力なくしては、なかなかに困難なのである。

ことに現代人は人前で恥をかいたりすることが、ことのほか苦手である。私だってそうである。初めて出会った他者といきなり輪読しながら声を出しあうのは、普通に考えてもかなりの勇気を振り絞らないと無理である。

ではなぜ、N氏は連続して参加してくださっているのか、謎めいているのだが、指紋と同じように人それぞれ声紋というものがある、人間はAIではない。人それぞれ声音が異なる。

そのことが素晴らしいのである。どんなに聲の出ない小さき音しか出なくても、ヒトは言葉を操る、身体という器から逃れられない。

N氏は私がやろうとしている体と聲 との関係性に関心を持たれて参加されているとのこと。私は体の芯から声を発することの気持ちのよさを、61歳でシェイクスピア遊声塾を立ち上げて7年目にしてようやく少し、声を出す喜びのような感覚がわかってきつつある。

書評を読むのが私の楽。しみの一つ、です
20行くらいの長いセリフを、かぼそいわが体で 流れるように発するのはなかなかに骨が折れるが、一言でいえばやりがいがあるし、シェイクスピアの詩的言葉は、いくら声に出しても飽きが来ないから、きっとやれるのだろう。

ともあれ、遊声塾のレッスンと輪読会は全く異なる。何はともあれ一人で読むのではなく、他者の前で自分の声をさらしだす勇気をもって参加するだけで十分である。

人間は変化する器、変化するには他者との関係性の中で、おのれをさらけ出し、自分という器の可能性を見つけてゆける存在であると、私は考える。

旨い下手とか、低次元の話ではなく、自分の体から自分の声を見つけてゆく勇気をこそが、肝要なのである。自分の体がしおれるのかしおれないで、小さき花を咲かせるのかは、ハムレットが問いかけるように、永遠のそれが問題なのである。

特効薬はないが、人間は勇気を持ちうる器である、他者の前でいい意味で恥のかきっこができる輪読会をこそ私はやりたいのである。

ロミオとジュリエットはある面、勇気の物語でもある。最後にN氏に一言、あなたの勇気に勇気をもらいました。久しぶりに妙味ある人間と 語り合え、愉快でおいしいお酒でした。この場を借りて感謝します。

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