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2019-06-02

第3回シェイクスピア音読輪読会の朝に想う。

今日は午前中、岡山のきらめきプラザで第3回目の、音読輪読会である。間違いの喜劇、十二夜、に続いて音読するのはロミオとジュリエットである。

理由はことさらにない。シェイクスピア遊声塾を始めたのも、輪読会を始めたのも自然の流れである。でもまあ、何はともあれ3回目をやれることが、ささやかに嬉しい。

遊声塾の発表会に向けての真っ最中なので、輪読会についての言及、告知はほとんどしていないが、連続して参加される方が5名ほどいるので十分に成り立つし、連続して参加される方がいるということが、喜びである。

日々の暮らしの中に、ささやかにありがたいいっときが、刻めるような過ごし方ができるように、凡夫の私の体はいまだ囁く。紋切型ライフにややもするとわが体は安きに流れる。安きに流れるのを否定しているのではない。わが脳は怠惰である。

だが、怠惰がなにもまた生まないことも、わが脳は知っている。だから、そのせめぎ合い的な絶対矛盾をこそ生きねばならないのが、宿命ではないかと考える。

理屈はともかく、言葉にすると陳腐だが行動実践することの中から、かすかな光を感知するしかない。くたびれるまで声を出すと、実によく眠れる。よく眠った体はよく働く。

日々の循環的なシンプルライフが、遊声塾をはじめて極めて深まってきているのをわが体が、実感している。

6年前に求めた本・言葉がない。
単なる思い付きで始めたことだが、翻訳日本語の言霊を繰り返し音読していると、時折言霊がわが体に忍び寄ってきて、わが体に乗り移り、変身してゆくかのような、いい意味でのエクスタシー感覚を昨年のリア王の発表会あたりから、かすかに感じ始めている。

日本語なるものでできている、わが体の有難さを、シェイクスピアの翻訳日本語のコトバ を繰り返し音読することで、初老の体にいまだ精気が蘇るのである。これこそ、私が遊声塾を立ち上げた、無意識のうちに求めていたものであるのかもしれない。

老いゆく渦中のさなか、あえてあらがうかのように音読を持続する中で、ロミオやマーキューシオ、ティボルトほか、思春期の若者の声を音読すると、にわかに初老の体の奥深くに眠っていた、忘れていた自分が立ち上がってくるかのような錯覚に陥るのである。

老いゆく中での未知との遭遇、自分とは何か、自分はなぜいまここに存在しているのか、自分はどこから来たのか、なあんてことを、柄にもなくシェイクスピアのコトバを音読していると、考える。スフィンクスの謎である。

この世界は、ヒトは不条理、謎だらけ、だから面白い(と思いたい側を私は生きる)。このような感覚を共有できるかのような ヒトとの輪読会を私はもとめているのかも。


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