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2017-03-08

愛と悲しみの果てに、私はぼけてゆく側に身を置きたい、と考えた朝。

昔も書いたことがあるかもしれないが、(きっとこれからは老いるにしたがって、同じようなことを繰り返し書くかもしれない、ご容赦を)愛と死をみつめて、という見てはいないが、タイトルの日活映画があった。

最近、このタイトルが沁みるようになってきた。愛と憎しみ、というタイトルの本もあった。これはまだないが、愛と宗教のような、タイトルの何かがあれば、売れるかもしれない。

でも。愛という言葉は年と共に私にとって、私にとって絶対不可欠のように、縋り付く言葉として重みを増してきつつある。
最近読んだことがない方の本を手にしています

そういえば記憶い出した、愛の暮らしという言葉の入った歌もあった。愛(世界中の愛を意味する言語の本があれば私は机に置いて日々眺めて暮らしたい)という英知の極みというしかない人類。

気が遠くなるほどの、おびただしい殺りくや死の歴史の上に築かれている、現在の我々の暮らしであるが、ヒトは私も含め、飢えることのない一見平和的な時間がこうも続くと、いわゆるどこか金属疲労的、平和ボケが(私のことです)進むのだと思える。

でも私は、平和的にぼけていられる世界をよしとする側に身を置きたいと、だんだんと思うようになりつつある。(どんな大義名分があれ、人を殺すよりも、私はぼけていたい)

老いるとか、ボケるとかという、きわめて自然で当たり前のことにあらがうのではなく、なるように、在るがままに受け入れようとの思いがゆっくりと深まりつつあるのだ。

先日写真でアップした、文春新書の70歳(人と社会の老いの作法)は、いろんなことを考えさせる、現在の私にとって、読み応えのある対談集 だった。

答えを見つけるために考えるのではなく、折々の選択を可能なら悔いなく決断するために、心ある方々は、考え続けているのだ。その持続の果てに何かが生まれてくるのだ。

83歳の五木寛之さん(長年読んでいるのでさんと呼びます)が自分は悪人であると述べておられます、このような直截的な発言を私は初めて読みました。

五木寛之さんも現在の私くらいの年齢の時には、このような大胆な発言は控えていたかと思われますが、死を身近に感ぜられる年齢になられた今は、対談の流れの中で自然に述べられています。

話はいきなり、シェイクスピアの【リア王】に飛ぶ(対談の中で五木寛之さんはリアの言葉の一節を引用している)。
時折想像力の働かない言葉は気分転換に口を動かしながら書き写します

35年ぶり、恋の骨折り損の発表会の稽古の合間に、山陽カルチャーセンターの教室で一人の生徒さんと二人で(厳冬期Uさんはお休みしているので)リア王を読んでいる。

今現在の私の年齢でリア王という作品を読むと、高齢のリアだけではなく、全登場人物の言葉のすごさが、人生をいくばくか経てきたせいか、肺腑に沁みてくる。

老いるとは、親子とは、夫婦とは、善人とは何か?悪人とは何か?人間とは何か?という一筋縄ではゆかない、人類の苦悩的大問題に、シェイクスピアが果敢に 挑んだ大傑作である、ということが、翻訳文体に寄り添いながら無心に声を出して(うまい下手関係なく)いるとわかる。

こうまで人間の建前ではない、本音の言葉がさく裂、応酬する痛ましいまでの作品 であったとは。人間の存在、不条理性の言葉の数々が、すでに400年以上も前に書かれている。

まさに現代は、リア的な、狂気が闊歩する時代の相貌をみせ始めているように思える。とりとめのない朝ブログになったが、まったくこんなブログになるとは私自身も思わなかったのだから、私自身も何かに動かされているのだ。

いまはまだ恥ずかしいので、愛については書くことを控える。

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