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2017-03-29

丸2年シェイクスピアを声に出し、面白くなってきたと語るIさんに励まされる。

夕食後、まったくといっていいほどに頭が働かない時間帯だが、そこはかとない春の気配に、いい歳をして浮き浮きしてくるじぶんがいまだいる。

今夜は夕飯に、珍しく野菜カレーを私が作り、母も誘って食卓を囲み、先ほどメルの散歩もかねて妻が送っていった。(母が育てた、菜花、ホウレン草、小松菜がふんだんに入っている)

竹韻庵の山桜(曇り空で残念)

さて、今日はささやかに 嬉しいことがあった。朝一番塾生のIさんからお話があるとのメールが入り、お昼前、弓之町で弓の自主稽古を終えて、約一時間程度二人きりでお話時間をもった。

Iさんと二人だけで、話をしたのは初めてのこと、詳細は省くが、とても私にとっては前向きで、希望が湧いてくるお話だったので、有り難いお話だった。

遊声塾を始めて、こんなに嬉しいことは初めてのことである。 中でも一番うれしかったことは、2回発表会に出て、なにかようやくシェイクスピアが面白くななってきたといわれたことである。

黙読しただけでは、ちっともその面白さがわからないのだが、声に出して読み続ける中で、漸くにしてシェイクスピアをもっともっと、声に出してみたいという気持ちになった発表会であったとのこと。

オーバーではなく、何度も書いているが、このような無謀極まる塾に参加してくださる塾生は、ともにそびえる山に挑む同志的情熱で結ばれていないと、とてもではないが、まず無理なのである。

有史始まって以来といってもいいくらい、全身を使う第一次労働がへり、私を含めて現代人は胎から声を出すという感覚をすでになくしてしまいつつある。(身体よどこへ行った)

そんな都市化した現代人が、400年前の血沸き肉躍るシェイクスピアの劇的言語、言葉言葉世界に、身体で丸ごとぶつかり稽古のように声を出すのは、最低3年死にもの狂いで声を出さないと、まず無理なのである。

でも、絶望はやはり愚か者の結論 である。なんとか4年続けてきて、このような塾生が出てきたのがその証左である。だから、65歳で、またギアをもう一段シフトアップ、4月から輪読ワークショップも始めるし、このような可能性を秘めた塾生との出会いを、今しばらく探求することにした。

そのためには、まずは私が心身ともに健康でないと、遊声塾は始まらない。ということで夜は、できるだけ 余計なことはせず、ひたすらわが唯一の財産である体をいたわり、闇に抱かれて眠りにつくことにする。





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