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2016-03-15

昨夜は素敵な自主稽古がI女史のおかげでできました、感謝。

いよいよ遊声塾の発表会が迫ってきまして、水曜日のレッスンだけでは時間があまりに足りないということで、昨夜は塾生の一人I女史の個人的なお店(ブティック)で閉店後の7時過ぎから、来れる塾生と私の5人でのいわば自主稽をしました。

正味2時間近くでしたが、みんなそれぞれ各自熱が入ってきて練習しているのがわかり、つたなき塾長としては実にうれしい稽古ができました。

始めて一年にも満たない塾生がほとんどの遊声塾の面々にもかかわらず、また特別シェイクスピアが好きで遊声塾に参加してきている方はほとんどいないにもかかわらず、私の無謀な要求にも 、情熱を傾け必死で自分自身が格闘しながら声を絞る塾生の姿は、私を感動させます。

なぜ私が遊声塾を立ち上げたのかの答えが、3年を迎えるいま、ようようにして 姿を現してきたかのような思いにとらわれ、稽古を終えて駅まで歩くなか、私の体に喜びが満ちました。

シェイクスピアの作品は登場人物が多く、私も含めた7人の塾生はひとりで何役もの声を出さないといけないのですが、これにはかなりの集中力の切り替えが必要になり、ちょっとの油断もできないのです。
我が家の沈丁花とクリスマスローズ

私も含めた現代人が、いかに一心に何事かに集中してやることに対しての持続力が落ちていることを、思い知らされます。

鍛えぬかれた言葉の結晶である、シェイクスピアの台詞は生半可の声ではとてもではなく、弾き飛ばされてしまいます。いやでも体全体から声を出すことを要求されるのです。

シェイクスピアの膨大な言葉は、いわば声を出す器としての体をいやがおうにも 鍛えさせてくれるのです。声を出すには呼吸がしっかりとできないと、まず無理なのです。

30年ブランクのわが体は悲鳴を上げるのですが、この30年肉体労働の成果が出ているのかもしれません、少しずつ体に薄く薄く染み入ってくるのが感じられます。

だからなのだと思います、苦しくとも稽古が愉しいのは 。絶対矛盾を嬉々と生きるということです。きっと、昨夜は塾生もそのことを少し感じられたのではないかと思えるような瞬間がありました。

だが、悲しいかな油断するとつかんだ感覚も 、砂のように落ちてしまいます。体の奥深くにいかに杭を打ち込めるかなのです。そのためには稽古をするしかありません。

自分の声が、役の声と重なり響き合うようになるための稽古。その声が出た時の喜びを是非稽古を通じて見つけてほしく思うのです。私も探しています。

自分の中の未知の、いまだ知らない声に出遇うための、自分自身のレッスン、が遊声塾なのです。




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