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2016-03-12

遊声塾と個人的な発表会が近づいてくる春の朝に思う。

入場無料とはいえ人様に案内を出し、個人的わがまま、あるがままの発表会をする。

【間違いの喜劇】全幕を一人で読むというのは、はなはだもって無謀な行為である、ということを昨日も夕方、ひとりで3幕まで約一時間近く休みなしで声を出し続けてみておもった。

絶対矛盾だが、とにもかくにも当日はアクシデントでもない限りやってくる。限界を必死で遊ぶのみである。

登場人物のすべてのセリフを、マラソンのようにタスキをわたしながらゆっくりと、エネルギー配分しながら 声を出し続けようとの思いの
我が家の庭に咲いていた春を告げる花
み、短距離走ではない。やらない限り今のわが体に発見はない。

このような、無謀な思いつきも生きているからこそなのだから、何人の方が来てくださるかは皆目わからないが、すでに7名近くの方が来てくださる反応があったので、もう私としては十分である。

ささやかに、今こんなことをやっています、との単なる近況報告くらいの気持ちで100通近く案内を出したが、一割くらいの方が来ていただければ私としては、十分なのである。

それよりも、もしどこかで限られたメディアの告知で私のことを知らない方が、ふいに一人でも来てくださることが、もしあったとしたら望外の嬉しさが私を襲うに違いない。

27歳で文学座の養成所の試験を受けた時(試験に落ちたら私は演劇を学ぶことを断念しようと考えていた)2次試験の音楽、歌の試験で私が歌った歌は、原語での見果てぬ夢であった。

今考えると若かったのでやれたのだと思う。しかしこの年齢になっても思うのだが、いまだにあのころのような、かすかな見果てぬ何かが自分の中に残っていることを、私は有難く自然に受け止めている。

今なら、かろうじてマラソンのようにゆっくりとではあれ、完走できるかもしれないという淡き思いがやまないのである。これをやれたら、なにかがおわる。

いつまでやれるか皆目わからない私塾を立ち上げて、まったく思いもしない船出をし丸3年、世の中に出てからの、あらゆる意味での自分自身に対する一区切りの自分にしかわからない発表会なのである。

もうあと20日、よく眠って食べ、万全の体調で当日を迎えたいと思う。


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