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2015-04-13

又吉直樹著【火花】を読む。

昨日、関西圏一日乗り放題チケットを使って大阪の梅田までシェイクスピアの十二夜を見に行ってきた。

芝居を見るのは本当に久しぶり、遊声塾を立ち上げなかったら、そしてシェイクスピアの十二夜でなかったら、まずゆくことはなかっただろう。

短い時間で芝居の感想を書くことは控えたいのだが、ちょっとだけ触れると、まず料金。3段階の値段設定、1万2000円、8000円、5000円、もちろん私は5000円の3階席で見た。

若い頃、ロンドンでたくさんの芝居をシェイクスピアを中心に私は見た。おそらく今でもあると思うが、当日開演直前、売れ残った席があると、学生や年金生活者は、どんなに高い席も1ポンドで(円が強く当時のレートで400円くらい)見ることができた 。

当時フルタイムの英語学校に通っていた私は、学生証なるものを学校が発行してくれ、そのおかげで学費のもとをカバーできるくらい、シェイクスピア作品を見ることができた。この体験は私の青春の宝である。

最高の席で、しかも格安でシェイクスピアを見ることができた私は、本当に夢を見ているかのような至福観劇体験を することができた。

ロンドンから帰って来て、私は日本の芝居の値段の高さから、自分が芝居を学びながらも徐々に商業演劇からは次第に足が遠のき、自分が属する劇団も含めて、小さくて値段が安くて、しかも面白い劇団へと足が向かうようになっていった。

芝居とは時代を映す鏡だと、シェイクスピアは語っている。さて昨日の十二夜の観劇にも、演じる側にも、見る側にも今の時代の面妖な諸相が映っているのをしかと、冷静に観察することができた。

謙虚に私なりにしっかりとシェイクスピア作品を学びつつ、無謀な塾であることは、重々承知しつつもほんのわずかでも、あの豊かな重層的な作品世界を形作る言葉を肉体化したいと、改めて確認した。

そういう意味で、わざわざ大阪まで足を運んでことは、とても私の中でよかったと今思っている。

さて、話は変わる。行き帰りの車中で、又吉直樹著【火花 】を読んだ。私はほとんど小説を読まないのだが、縁としか言いようがない。書評で知り、切り抜いてトイレにはっていたら娘が読みたいというので、お金を渡したらすぐに買ってきた。一心に読み終えたので私も手にしたのだ。

ほとんどテレビを見ない私は、ピースという芸人コンビのことを知らなかったが、そのこととは関係なく読み始めたらやめられなくなり、一気に読み終えた。

読みながら、私が18歳で上京してから31歳までのことが,次々に私の脳裏によみがえってきて、時折数か所ジーンとなった。今となっては青春特有の光と影というしかない切ない暮らしが。

また、私が彷徨った、渋谷、高円寺、吉祥寺、下北沢、三軒茶屋、、、、。たくさん出てくるので 思い出のライブハウスや、いろんな場所のお店や、横町の記憶が生々しく、忽然と喚起されて、とても時折小説を読んでいる気がしないくらい、身につまされながら読み終えた。

いろんな人たちの面影が、亡霊のように脳裏を行き来した。いい小説はその人にしかかけない文体がある。又吉さんは文体をもっていて、表現する力がある、素晴らしい。世界を獲得した人のもつ言葉の力。

私にとっては、リアリティがありすぎるくらいの小説というしかなかった。人間はひとりひとりが言うに言われぬ、闇を抱えている存在なのだとあらためて思う。

その闇を引きずって相(愛)対峙するしか ない。読み終えてそのように私は受け止めた。青春が終わり、そしてまた始まる。私にとってはぐっとくる小説となった。

さて、再びシェイクスピアに戻るがあの青春の日々、小さな劇団で4年近くあけても暮れても、小田島雄志訳のシェイクスピアを声に出したが、よもやこの歳で再び小田島訳でシェイクスピアを声に出すことになろうとは、思いもしなかった。

現時点で、私は出会えた仲間と、リアリティのあるシェイクスピア作品の登場人物の声を見つけたいと考える。それは自分の体で、声で表現するしかない。リアリティとは?永遠の謎のように思いながらも。


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