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2015-04-11

春の雨のさなか、入塾したばかりのAさんと、間違いの喜劇を読む。

4月1日に入塾したばかりのAさんと、昨日午後我が家でレッスンをした。二人でシェイクスピアの間違いの喜劇を全幕読んだ。

基本的には水曜日の夜が、定例の全員参加のレッスン日だが、 仕事の都合で4月は水曜日は参加できないのに、入塾を即決してくださったので、代わりの日に個人的にレッスンすることに、したのである。

いつもの場所とは異なる我が家での二人だけのレッスンは、やってみて、これはこれでまた有意義なレッスンができるということが分かった。

フルに月謝を払ってくださっている塾生で、水曜日に来れない時には、ほかの日に個人レッスンを百科プラザか我が家でやれることが、はっきりとわかった。

外は降り続く春の雨のなかで、二人してただ黙々と声を出し読み進んだ。Aさんがシェイクスピアを読むのを初めて聞いたのだが、初見ですらすらと臆せず読み進んでゆくので、いつしか私も安心して二人での回し読みを楽しめた。没頭する器、人間ならばこそである。

まずは素読が基本、あとは稽古してあの膨大なセリフに息を吹き込む困難な作業をいかに楽しめるか、楽しめないか、何事も一日ではならずである。

何か、一途な感じがAさんには漂っていて、これからが実に楽しみ。いま現在7人の塾生だが、全員性格がいい。声は偽れずすべてがさらけ出される。数回共に声を出すとあっという間に仲良くなる。

一つのチームとして、抜ける人は抜け、漸く最低の数のメンバーが2年かけて整いつつある。シェイクスピアは登場人物が多いのであと数人いればというところである。

何事にも程よい人数というものがある。 シェイクスピアの塾に、まして私の塾にこのような素敵な面々が入塾してきてくださるなんて、私にしかわからない思いに満たされる。

それにしても予期しないことが、立て続けに起こる春の珍事ではあるけれど、塾生が増えることの出会いによって、こうも塾の雰囲気が変わってしまうということに、今更ながら驚かされる。

人間という器の得も言われぬ魅力は、はたまたどのように醸し出されるのかが、これから実に楽しみな塾生たちである。一年後どれくらい変化するのかが。
私は小田島先生に文学座でシェイクスピアを学んだ

私はこれまでの人生で培ってきたわずかな自分の中に宿る財産を、塾生たちにぶつけてゆく覚悟でいる。私も声を共に出し続けながら、塾生と相対する。

その中から紡ぎだされてくる関係性をひたすら大事にしたい。これは現代生活においては稀な試みなのだという自覚が私の中にはある。


 私も含めた心身ともに痩せ細った現代人が、新しい関係性を 豊かに紡いでいく最適なテキストは今のところ、私にはシェイクスピアをおいてほかにない。



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