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2013-05-22

シェイクスピア遊声塾5回目の朝に思う


かなり開いてきたつるバラ・差し上げますのでいらしてください

あっという間に日々が過ぎてゆくというのは、わたしの場合は実に幸せなことのように最近は感じている。今日で早くも、シェイクスピアの遊声塾は5回目を迎える。私は私なりに仕事を辞め、新しく何か自分らしい事をやって、もし生きてゆけるのなら、最低生活を覚悟してでもやりたいことの中に、声を出すということを、思考錯誤の果てに始めたのだが、素敵な生徒さんに恵まれた有難さを噛みしめている。

 

これもまた縁というしかない。教えるというのではなくコーチングしてゆくという感じの私のレッスンは、わたしと生徒さんとの間での声の出し合いで生ずる、一期一会のその日のレッスンである。それにしても声を無心に出すことは楽しい。生きていればこそである。

 

若いころ、20代の後半の4年間、私は空けても暮れてもシェイクスピアシアターという劇団で、翻訳されたばかりの小田島雄志訳のシェイクスピアを、口から身体にしみこませてゆく訓練をやった経験を持つ。その結果、当時渋谷にあったジャンジャンという100人も入れば満席という小さな小劇場で、シェイクスピア全作品37本のなかの、8本の舞台に立つという今考えれば、夢のような幸運を得た。(またそのことはおいおい書いてゆきたい)

 

振り返ると、私がこのようなちょっと人とは異なる人生を選び歩んだ要因の大きな事件の出発は、これもすでに過去にブログですでに触れたが、宮崎の田舎町でフランコ・ゼフィレリのロミオとジュリエットを高校生の時にみて大感動したことに起因している、とやはり思う。それほどに今も細部に至るまであれやこれや、衣装音楽も含めておもいだせるフィルムに出逢えたことの幸運を(今考えての)量ではなく、生徒さんとレッスンを共にしながら噛みしめている。

 

晩年のこれから、再びシェイクスピアをあらためて声を出し読み込みながら過ごせる時間が、我が人生に訪れるなんてことは、まるでおもいもしなかった。昨年2月、東北を初めて訪ね、岩手の大槌町というところで瓦礫の撤去のボランティアなるものを初めてして、還暦を迎えた日のことで、何かが私の中で大きく変わった。原点回帰。

 

偉大な芸術や文学には、汲めども尽きせぬ人生の全てが、書きこまれている。私の場合はシェイクスピアに出会ってしまったのだとおもう。このように面白くもまた悲しい、生きるということに関しての人生の真実を多面的重層的に刻(か)いた作家を、私は他に知らない。だから私はヒダカトモフミのシェイクスピア遊声塾を始めたのではないかと、おもう。

 

 

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