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2012-10-11

故郷への限りない私の思い


夜明け前のひととき、寝る前はもう何の思考力も、本を読む気力もないくらいに、疲れ切った身体が、ひたすら休むことで生き返るというのは、いまさらながらに不思議である。何度も同じようなことを書いているような気がするが、年齢と共に微妙に何かが少しずつ変容していっているのを、書きながら今の自分の中で感じている。

 

この朝の時間というのは、寝起きで身体がまだきちんとは起きていないので、頭もまだしっかりしていないし、ぼわーっとニュウトラルで、その中から湧いてくる言葉というものは、自分でもときおり不思議なのです。書き終わって、ああ今日はこんな感じのブログになったなあ、という全く予期しないようなことが書けるときが、一番自分では嬉しく楽しく、それが書きつづけられるもとなのかも、と考えています。

 

さて、昨日のブログで今回の帰省の旅で、長兄夫婦をはじめ、姉夫婦、次兄に大変お世話になったことを書きましたが、故郷に対する私の思いの深さの、根拠は一体奈変にあるのかということを50歳を過ぎるころから、鈍行列車(今回は新幹線でした)につらつらゆられながら、尻が痛くなっても帰郷するのは何故なのかを考えるのですが、ようやくにし言葉にできるような気が今回の旅でしました。

 

それはあまりにも当たり前なことで、言葉にする必要もないのですが、あの故郷の環境の中で(両親、姉兄弟と過ごした、幼年時代の記憶の全て、いまも私の中でしっかり生きている)私の精神の核が出来ているということです。気障な表現をするなら、還暦を迎えてもなお、いまだ止み難く幼いころの自分が過した原風景に抱かれたいという(そこが地球の上で最も心が安らぐという場所)衝動が私の中に、激しく存在するということなのだと思います。

 

両親には会えない今、おそらく姉や兄がいなくなったら、もう故郷にはあまり足が向かわなくなるのではないかという気がします。もちろんそのころには私が先にこの世から、姿を隠しているかもしれないのですが。

 

こんなことを書くと、何やらさみしげな気がしますが、そんなことはないのです。平静にやっとこんな一文が綴れるようになり、兄や姉と、老いたとはいえまるで幼年時代に帰ったかのような時間が過ごせた、帰郷の旅は又一つ、別の次元に私の意識が育ったような感覚さえ、覚えました。

 

このような感覚は、やはり還暦を迎えたからこそ成し得たもので、健康に生きているということの在り難さ、奥深さを知らしめるのです。

 

故郷の、山河(家族)に向かいていうことなし、ただただ、ありがたきかな。という、私も若山牧水のように、故郷の万物に感謝したい心境です。

 

 

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