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2023-11-25

【紅葉狩り・裸足散歩で・事もなし】五十鈴川は流れる。

 ガザエリアの戦争、わずか4日間でも、双方のとてつもない駆け引きの上、砲火の音が止むとの報道。だが先の予断はまったく想像を絶するほどに先が見えない。遠い島国で哀しいかな平和に生きられるありがたさに、埋もれている一老人、折々もう五十鈴川だよりでは打つことは控える。が、ガザエリアの戦争、ウクライナの戦争の行く末には(もちろん他のエリアの戦争にも)関心のアンテナだけは持ち続けたい。

小説を読むのに理屈は要らない、面白い。


老人の鬱々、嫌な予感をわずかでも払拭するために、何はともあれ自分の気持ちを日々上向きにキープするために、ルーティンワークを続けている。69才の術後から継続、すでに2年以上続けているから、三日坊主の私としてはよく持続している。

それは何回か打ったかもしれないが懸垂である。60代でも弓を引いていたとき時おりやっていたのだが、69才で手術右腕の下を10センチほど切ってから、もう弓に割ける時間は諦めたので懸垂をやることもないと、諦めていたのだが、再開している。

再開し、最初の一回ができたときは、再生、嬉しかった。その時に思ったのだが、なにかを諦めてもなにも全部諦めることはないし、なにかを手放すことで、他のなにかまた新たな可能性が生まれてくる可能性もあると気づいたのである。

若い頃から運動、分けても懸垂は大の苦手だった。考えてみると読み書きも大の苦手だったし、肉体労働もまったく自信がなく苦手だった。だが、人生はわからない、追い詰められると不思議としかいえない力がわいてくる。逆転する面白さがあるのだ。追い詰められないとこれだけは決してわからない気がする。苦手だったことが苦手でなくなる。自分の中の奥深いなにかに光が辺りうごめき出す。やはりどこか嬉しいし私みたいな単細胞は自信がわいてくる。

古希を過ぎて想うのだが、18才で世の中に出て、まったくなんの取り柄も自信もなかった私が、曲がりなりにも、今もこうやって生きていられるのは、自分の中の弱点を、ほとんど諦めながらもどこか諦めず、往生際悪く土俵際(だから私は相撲が好きである)で踏ん張りながら、ときに撤退しながらも、また前進し、その繰り返しの果て、気がつけば、薄い薄い皮をめくりながら、思わぬ新しい自分と出会い、だからこそ、生きてきてこられたのだ。そしてその新しい自分があればこそ新しい他者にも出会えたのだ。

そして想う。当たり前のことなのだが、人生は超高齢化社会とはいえ有限なのである。与えられたこの世をいかに泳いでゆくのかは、厳しいが各々次第である。有限なる健康寿命というものが、いったい私にあとどれくらいあるのかは知るよしもないし、敢えて申せば知りたくもない。ただ想うことは、私なりのこれからの人生時間を面白おかしく生きられば、もう他になにも不要ということなのである。

おもえば、18才から可能な限りの種々の肉体労働仕事で、モヤシのような我が体は、世の中の時代のなかの労働で鍛えられ、徐々に細い体ではあるが強靭になり、そのお陰でもって今も草刈り他の労働が、年齢のわりに苦もなくやれるというのは、たぶん継続の賜物なのだと、自分勝手に天に感謝している。

私を育ててくれたのは、築地の市場であり、富良野の広大な大地であり、中世夢が原なのである。ただただ体を動かし、いろんな道具を動かせるようになり、なんとか自分を含めた家族共々生き長らえ、いまも生きていられる幸運をただ私は生きている。ただそれだけなのである。

平凡な生活の日々の持続が今の私にはもっとも大事なのである。休日の今朝も朝日を浴び、裸足散歩を15分、懸垂を5回(それ以上はやらない)、深呼吸を繰り返す。青い空と雲を眺め、ハラリハラリ舞い落ちる紅葉樹木に眺めいる。老いの多幸感、高徳は老いないとわからない。若くなろうとは思わない。今をお金に頼らず面白おかしく生きられればことも無しである。

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