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2023-11-11

無関心と無知が、我が身にも、取り返しのつかない事態が出来する、老いの想像力を養う。

 前回同様、もやもや、忸怩たる思いを抱え込みながら、能天気な五十鈴川だよりを打つ気がしない。打つ気がしないのに打つのは、自己分析の苦手な私自身にもよくはわからない。気持ちを落ち着かせるため、とでも言うしかない。

末世信頼できる著者から謙虚に学ぶ

無意識の我が体の領域の広さは自分でもまったくわからないが、いちにちいちにちの気持ちのバランスをどこかで暗黙の内にとりながら、風通しよく過ごしてゆくために、私の場合は五十鈴川だよりを打っているにすぎない。

隣に飢えた人がいても、自分が飢えたことがなければ、その飢えたひとの困窮のそこの果てはきっと悲しいかな永遠に感知し得ない。私もその一人である。その一人である私は、今日も老人としての一日を生きるために五十鈴川だよりを打つ。(無関心と無知はきっと我が身にもやって来る)

ウクライナ、ガザエリアの報道には沈黙をキープしつつ、自分なりに目をそらさず考え続けたい、とだけ打っておくにとどめる、が無関心の愚だけは避けようと思う。遠い異国の地では、地獄そのものの状況が続いている。水食料がない。トイレが汚物で溢れ返る。瓦礫のなかで人間の生活の基本が失われている、数多の民の置かれている状況がますますひどくなってゆく。泣き叫ぶ子供たち、母親、父親、お祖父さん、おばあさん、妊婦のかた、障害を持ったかた、あらゆる力を持たない弱者に無情な砲弾の嵐。逃げ場所がないこの世の地獄の縮図。世界の人たちに見捨てないでくれと、訴えていたジャーナリストの声が私の耳に届いた。あまりにもの絶対不条理。

老人の憂鬱を抱え込まないために、私が私なりに日々のささやかな祈りにもにた気晴らしに、欠かさずやっていることがあるのだが、そのような何気ない普段のよしなしごともまったく打つ気がなくなるほどに、パレスチナとイスラエルの戦争は、私の内面にいいようのない影を刺す。

いま私は、初冬の日の射す穏やかな部屋で五十鈴川だよりを打っているが、いちにちでも一時間でも無用な流血の惨事がやむことを願い、五十鈴川だよりを打つくらいしか出来ない。言葉が虚しい、が、(忸怩たる思いを、綺麗事ではなく和らげる方策を考え続けねば)



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