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2023-11-19

うつうつとした気分を抱え込みながら、島田雅彦さんの小説【時々、慈父になる】を読む。

 日が昇り目覚め、朝一番メルの散歩を済ませ、8日ぶりに五十鈴川だよりに向かう。極めて普通にことさらな不安もなく、家族、親族、友人知人が元気に過ごせていることに対する自分自身も含めた、身の回りの存在が、平凡に生きていられることに対する感謝の念は毎日深まる。

ガザエリアの知らされる現実の想像を絶する戦争の言葉にならない、あまりにものおぞましき実態に慄然とする。正直、71才の老人の気持ちは鬱々としてさえない。だがこれは自分だけが抱えているうつうつではなく、多くの見知らぬ世界中の民が気持ちを共有しているのだと、どこかで自分を都合のいいように慰撫している(のにすぎない)という忸怩たる思いは消えることはない。

そのような消えぬおもいを抱え込みながら、日々出口なし的な状況を好転させるかのような人の出現、世界の良心を顕現化する出来事の到来を、遠い島国の穏やかなエリアに生を受けたものとして、祈らずにはいられない。有史以来途絶えることのない殺戮の上に人類はなんとか絶滅せずに、いまも生きながれられているその事実を、今日も老いたる我が身に冬の陽射を受けられる至福を噛み締める。

広島や長崎をないがしろにするかのような、前代未聞の人智を越えた愚かしき悲惨な出来事が起こらないように祈り、五十鈴川だよりを打てる間は、繰り返しさざ波のように打つしかない。

夜中の3時のNHKニュースで、インドのモディ首相がガザエリアの人道上あるまじき戦争に対して強い危機感を表明していたが、利害の絡まないエリアの良心が届くことを祈るくらいしか、老人にはできない。

そのような日々の暮らしのなか、相も変わらぬ金太郎飴のような生活をしながら、とにかくうつうつしがちな我が体の風通しをよくすべく、ただ肉体労働をしているといった案配である。そのような生活のなか、島田雅彦さんの【時々、慈父になる】という小説を読んだ。

これを気に同世代の作家の本を。

小説はあまり読まない私だし、特段に島田雅彦さんの熱心な読者でもないのだが、うつうつを抱え込みながらも、一気に読み終えた。内容は割愛するが随所に共感を禁じ得なかった。私よりも9才若く、生まれ落ちた環境も異なるが、ほぼ同世代を生きてきた小説家の40年間の私生活(一人息子ミロクの成長の記録を親として見守りながら、時代の流れを冷静に見据え、小説家の感性で、折々オペラの台本を含め多彩な作品を産み出してゆく)交遊関係含め実名で書かれている、いわばノンフィクション小説である。

このような小説家の存在は、現在をうつうつと生きている私に限りなく元気を与える。それにしても島田雅彦さんにしか書けない、才能とはこういった類いの人のことを言うのだろう。私生活の自分の不始末の顛末も赤裸々に書いている。こぎみいいほどに筆がのびやかで自由自在に思えるのだが、そのように感じさせるのが才能のなせる賜物なのだろう。ともあれこのような才能ある小説家と、同時代を生きていられることの嬉しさが、私に五十鈴川だよりを打たせるのである。

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