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2023-11-02

釜山への旅3日めの朝に思う、五十鈴川だより。

釜山3日めの朝を迎えている。連日素晴らしい快晴に恵まれ、言葉に表せないほどの充実した、近くて遠いとややもすると感じがちな韓国という異国への、10年ぶりの旅は、老いゆく時間をいかに生きて行けばいいのかの、ターニングポイントとして、最高の選択であったと、いま感じている。
私は今朝の釜山での五十鈴川だよりを、ササンという地下鉄の駅の近くのカフェで打っているのだが、ここまでは宿の近くのバス停から138のバスに乗り適当に降りて、いつものように感じのいい店員さんがいるようなお店を見つけて五十鈴川だよりを打っている。 今日はまったく予定がないので、ゆっくり五十鈴川だよりを打てるのがとてもうれしい。昨日はポモサという山寺に詣で、そのあと山登り、山歩きを午後一時半まで、単独で完歩した。ために、ふくらはぎ他、いつ以来か思い出せないほどの、なん十年ぶりかの筋肉痛なのである。だが歩けるし、どこか筋肉痛になっている我が体が嬉しい。 着いて丸二日が過ぎたばかりなのだが、いつもとはまったく異なる釜山単独旅、このカフェの女性も含めすでになんと多くの普通の働く人たちに助けられていることか、そのことの有り難さがしみる。 老人の私を出会ったひとの9割りは親切に接してくれる。来て良かったと心から思えるからこそ、五十鈴川だよりが打ちたくなる。これが逆であったら、全く異なることなる印象を持つに違いない。旅は出会いであるとあらためて痛感する。おそらく年齢が一段とそのおもいを深めているのだと想う。 とはいってもここは異国、しかも10年近く外国を旅していなかったし、 バスや地下鉄、食事をするにせよ言葉の問題があるので神経の使い用は半端ではない。動き回ればあらゆるセンサーを老いゆく体で瞬時に判断しないといけないから、ボケ防止には老人一人旅が、私にはいちばん似つかわしい。昨日は心と体を限界近くまで動かした一日を過ごした。午後8時すぎ遅い夕飯、豚肉のチゲを頂いたのだが、このように美味しいご飯は初めてといってもいい美味しさだった。普段の食事では味わえないほどの。体が本当に欲していたときに頂いたからだ。 人間というのは、悲しいかなやはり日々の日常生活のなかで、知らず知らずのうちに安穏な日々にながされてゆくのだとおもう。だからなのだとおもう異国への旅に誘われるのは。溜まりにたまった目にはみえない何かを洗い流すには、私の場合日本語の聞こえてこない場所への移動がいまも必要なのである。そして実践できているその事が本当に心から有り難いのである。やがてはもっともっと老いて、旅をしたことさえ 忘却の彼方に消えゆくとしても、五十鈴川だよりを打つことで、しばしの間は孫や家族が読んでくれればそれでいいのである。 釜山には40代元気な盛りに来たことがありそれ以来、初めてきたかのようにアジアの大貿易都市に変貌している。たった二日ではあるが街ゆく人々、働いている人々を傍観者として眺めて想うことはエネルギーに満ちている。ホテルのそばにカンジャン市場があるのだが、体を駆使して働く姿に感動する。私は体を張って働く人たちに強く引かれる。若い頃築地の市場で働いたことがあるのであの頃を思い出す。 そういう意味で今回釜山にーいたのは大正解といえる。旅の目的はほぼ達したが、まだ2日ある。今日はこれから海を見に行こうかと思う。

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