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2022-06-08

6月8日、梅雨入り間近の真夜中におもう。(桐野夏生さんに喝采を送る)

 6月に入り植栽の剪定をやっている。このバイトをするまで植栽の刈り込みなどやったことはなかったのだが、私はこの作業も含め高齢者でもできる肉体労働仕事がどちらかと言えば好きである。この夏が来れば丸4年になる高齢者労働を、充分に私は楽しめている。とまあ、能天気なことが打てるのは、親としての役割を終え、人生で初めてといっていいとおもえるほど、ささやかに生きてゆくためには、華美な生活さえしなければ足りるし、慎ましくも豊かな生き方を志向しているからであると、自分では思っている。

母の家に咲いたゆり

だが、いまのこの特に若いかたたちの多岐にわたる未来への社会不安は、ほとんどがお金、賃金の格差等に起因しているのではないかとおもう。年よりの私でさえ、このあまりにもの不平等賃金格差社会の貧困問題には無関心ではいられない。

世界をおおう(今に始まったことではない)グローバル弱肉強食社会には無知な弱者ほど、痛いおもいに追い込まれる状況、良心が痛まない、特に政治家と称する人種には言葉を失うほどの絶望感を、私などは抱きながら、ほぼ半世紀をやりくりしながら、生きてきたといっても過言ではない。

幼少期からかつかつ生活で、親がやりくりしながら、私を含めて5人の子供を育てる後ろ姿を見て育ってきたので、慎ましくいきるほかなかった。私が育った当時の社会は戦後の臭いがそこかしこに残っていて、学級費が払えない貧しき家庭など当たり前だったし、私なんかよりも貧しい家庭状況を生きている級友たちの姿もたくさん見てきた。でもどこかまだ、人間的なゆとり、いたわりあい、暖かさが社会にはあったようにおもえる。

あれから半世紀である。社会は激変した。便利この上ない快適ハイテクお金万能社会、が、お金に翻弄される人間社会の面妖さは(激変するこの社会では、いつなんどき強者が弱者に逆転するやもしれない)複雑怪奇さを増すばかりのように私には思える。

読んではいないが、タイトルだけは知っている、昔、ふさぎの虫というロシアの小説があったと記憶するが、人間社会はいまも大差ないのではと思わせられる。かなりの国民が、引きこもったり、過労死するまで働かされたり、あるいは働いたり、賃金が払われなかったり、外国人労働者を安い賃金で過酷極まる状況かで酷使し、搾取したり、正社員と派遣社員、同じ労働をしても、賃金がことなり差別される。ひどいとしか言い様のない、人間としての誇りを無惨にも奪って恥じない社会が、やがて崩壊してゆくのは当たり前ではないかとさえおもえる。

理不尽さや不条理感は、なにも戦場でだけ起きていることではなく、いまの我々の普段の暮らしのなかに、思考能力をもうほとんど奪ってしまいかねないほどに、毛細血管のように張り巡えらされているのではないかという気がする。そのようなことをおもうのは私だけではあるまい。もういやというほど打っているが、小綺麗な衣装や傷のない車になんとか乗りながら、かつかつの生活を否応なく余儀なくされている、いわゆる昔の言葉で言えばプロレタリアクラスがわんさか、息をひそめて生活している現代社会の不気味さを、小説で表現しているのが、桐野夏生さんなのだということを、NHKのクローズアップ現代で知らされた。

五十鈴川だよりでは詳細は割愛するが、このような不気味な現代社会の闇をえぐって、弱者の側からというか、表現すべき手段を持ち得ていない人々に、この息苦しさはどこから来るのかという根元に目を光らせ、弱者に成り代わって声を文学で発する小説家の存在は貴重であると、どこかで喝采をおくってしまう私である。

私自身が世の中に出て半世紀、若いとき演劇などを学ぶという、危うい世界に身をおいていたこともあり、いつもあらゆる点で、言うならば嫌でも弱者的な環境で生きてゆくしかないような生活を長きにわたっての青春時代を送って来たこともあって、その際に身をもって知らされた、この一見華やかに見える、現代年文明の闇の深さを底辺から眺めてきた経験からもおもうのだが、この経済魑魅魍魎複雑怪奇の複雑さは、繰り返すが一段と巧妙さを増していっているように思える。貧乏とは、幸福とは、人間とは、剪定をしながら天ノ下で考え、五十鈴川だよりをうちたい。


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