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2022-06-04

気がつけば、11年目、6月最初のの五十鈴川だよりを打てる朝に想う。

 今日も暑くなりそうだが、朝夕はまださほどのこともないので、6月になって最初の五十鈴川だよりを打てるのが嬉しい。他の新聞の見出しは知らないが、購読している我が家のM新聞のみだし、例えば今日は、南ア産ワクチン受注ゼロという見出しである。

出掛けて本当によかった

日々に伝えられる新聞記事に目を通す時間が幾ばくかあれば、恐らくいまの私の老いつつあるがいまだ生きている感受性のようなものがあるとするなら、ありがたいことにずっとうち続けられるくらいに、へえーっと無知を刺激されるような文字が目に飛び込んでくる。

島根の原発再稼働にシフトにせよ、ウイグル自治区での(事実としたら)あまりの理不尽さにも、驚きを禁じ得ないような記事他、読んで知らされると、残り時間は少ない、ぼやぼやはしていられない、何かしないと、との思いにかられ、では何をすればと、己に問いかけ、わずかいちにちにひとつでも二つでも、きちんと記事を読みましたよ、との思いで記事をノートに貼り付けるのである。

オーバーではなく、古希を過ぎた私の肉体は、10年ぶりの企画を終えてからというもの、静かにちっ居生活に甘んじていては、どこか忸怩たるおもいにとらわれてしまう。

無き父が母が、遠いところから、もう少し頑張れしっかりしろ、と激励してるかのように、勝手に自分で思うのである。だから自分でおかしいとかきもちが悪いとか思えること記事に関しては、老いの思い、老いの一滴のように切り抜くのである。無関心が一番いけないとの思いに駆られるのである。人間は獣ではないのだとの側に一ミリでも近づきたい、状況次第では、飢えたりなんかしたら、自分だってそうなってもおかしくはない。自分だけはならないなんてことはあり得ないのだ。だからこそ平和を希求するのだ。できる今にのうちに。

先日も打ったが、脳トレではなく、精神の心を耕す、水をやるように、不甲斐ない不確かな己を、自分で叱咤激励するかのようにいわばまあカッコつければ心の筋トレをするのである。きもちが落ち込む記事だけではなく、爽やかになる、感じ入る記事も時おり切り抜き、バランスをとる。(世の中には本当に素敵に静かに生きている庶民がいると知らされる)

現代は、現代に限らず、生きていることはいつ何が、どのようなことが起こってもまったく、不思議ではないほどに、魑魅魍魎なことが予測なしに突然勃発するのだということを、いまも続くウクライナでの戦争は私に教えてくれている。

だからなのだとおもう、以前の五十鈴川だより(個人自主企画者復帰から)よりも、ずっと真面目な、のほほん五十鈴川だよりでは、なくなってきたのではないかと、自分では考えている。きちんと五十鈴川だよりをもし読んでくださるかたがいたら、すでに私は打っているが、子育て他、社会的な役割はすでにほとんど終えたので、臆することなく、無知をさらけ出しながら、一人の人間としてきちんと発言する勇気を失いたくはないのである。

気がつけば、五十鈴川だよりをうち初めて11年目に入っている。3日坊主の飽きっぽい性癖の私が、恥をさらしながら、よくもよたよた打ち続けてきたものである。(毎日ではなく気楽に打ってきたから続けられた)謙虚に学び体で打ちたい。

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