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2022-06-05

自分に水を指すように、できるだけ一日を丁寧に生きるように心がける朝に想う。

 もう特別なことがなければ、ほとんど出掛けなくなり、家か、図書館か、バイト先で一日の時間のほとんどを過ごすようになってきた私である。特に古希を迎えてすぐに大きな手術退院後からはそうである。でもいざとなると緩やかにまだ動ける

妻がいけたミモザの花


命の不思議、生きていることのありがたさを感じてからは、50年間も嗜んでいたお酒を絶ってしまえたし、お酒を飲んでいた時間が考える時間になってしまったせいもあるかもしれないが、古希を迎えてからは、本質的なことは変わらないにせよ、生活は本当にシンプルになったし、昨日も打ったかもしれないが、真面目に生活するようになってきた気がする。

お医者様には、気分転換くらいのお酒なら飲んでもいいとは言われているのだが、アルコールに依存しなくても、十分に気持ちのいい生活ができているし、何より一日でも気持ちよく動けるからだをキープするため、老いトレのような感じでの肉体労働生活を心がけている、そのお陰で心身の調子がいい。

おそらくこれからの五十鈴川だよりは、まるでお念仏のような、シンプル生活を綴りつつ思考するようになると想う。孫の成長、家族のこれからを可能な限り見守りながら、これからの遊行期時間を妻と共に大事に過ごしたい。そのなかで、何かを企画する、企画が生まれてくる生き方を志向したいとは考える。

難しいことを考える頭が自分に欠けていることは、充分に承知しているが、振りかえると10年間休んでいたとはいえ、チャリティ演奏会の企画がやれたことで、自信というのではなく、いまの年齢でも私にやれる企画が、やろうと思えばできるのだということが、自分のなかでハッキリわかったからである。歳だからということで可能性を閉じて行くベクトルではなく、理不尽さや不条理にたいしての痛みを感じる間は、何がしかの企画を、庶民の一人として打ちたいのである。

だがあくまで自然にやりたい。よしんば実現しなくても構わない。だって、人生一寸先のことは誰にもわからないからである。ましてや現代のような不確実魑魅魍魎時代、なにが起こっても不思議ではないし、あまり考えたくはないけれど、老いの危機感のようなものが、私のなかで消えないからである。何が恐ろしいとはいえ、いまのところ思考停止になるのが実は一番怖い。だから今朝も五十鈴川だよりをうち考えるのである。答えはない、だから考え、いまを生きるのだ。

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