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2022-06-19

まるで雲が流れるかのように時の流れに身を任せ、行脚生活を楽しむ古希ライフ。

まるで雲が流れてゆくかのように時が流れてゆくのを生きている、という感覚がこのところ増してきている。現世での出来事にたいしての執着心が弱くなってきたというか、雲の流れに 身を任せるというか、人間界のことに関してはほどほどにして(人間である間はかかわるが)、人間の及ばない世界の自然の推移、移り変わりに身を委ね、静かなひとときを大事に過ごしたいという心境は、以前にも増して強くなっている。

愛用シューズ

喜怒哀楽的な感情の起伏が弱くなってきているというのか、もうそういう次元から徐々に遠いところに向かってきているというような感覚の深まりがある。これを老いというなら、老いていっていると、いうことだろう。だが一面草を採るとか、掃除をするといった根気のいることに関しては苦にならない、楽しめる深まりのようなものを、感じている。

老いるにしたがっててきぱきとはいかないのだが、ゆるゆると雲が流れてゆくかのように、スロウモウな動きなのだが、確実に進むことを楽しんでいる。あまり五十鈴川だよりでは触れていないが、今年から意識的に歩くことを心かけている。

アルバイトしている日は、嫌でも相当歩き体を動かしているので歩かないが、お休みの日寒い季節には随分歩いていた。これから暑くなるので日中は歩かないが、早朝とか夕刻、わずかな時間ではあれ、気を巡らす行脚の一時を老いの楽しみとして、まるで小さな旅のように、歩くことの、歩けることの楽しみを生活のなかに取り入れたいと思っている。

できるかどうかは実践のお楽しみといったところである。5月の連休五十鈴川を遡り、念願のご先祖が生活していた宇納間まで、おおよそ35キロ歩けたことで、10キロくらいならいまの体力で十分に歩けるので、涼しくなったらただただ無意味に行脚するひとときを大事にしたい、のだ。ゆくゆく肉体労働もリタイアしたら、足がいうことをきけば歩きたい。

とまあ、そのようなことを考えている。だがいまはまだどこかに企画者としての煩悩が再び再燃していて、老け込んではいられないという絶対矛盾を生きている、というのが正直な気持ちである。ということで今朝はこのあと涼しい時間帯に幾ばくか歩こうと思っている。

話は変わるが、先日遠出して、神戸と大阪に出掛けた日は、元町界隈を、映画の前早く着いたのでかなり歩いた。古本屋さんなどがあって、まさに小さな旅の楽しさを堪能した。風光明媚なところだけではなく、都市の界隈を行脚することも私は好きなのである。思わぬ小さな人間の偉大な日々の営みを感じたりしたりできるのが、いいのだ。

インターネットランキングなどとは無縁の、美味しいカツ丼のあるお蕎麦やさんを見つけたのだ。本当に昔懐かしい昭和の香りがする家族で営んでいるお蕎麦やさん、たぶん元町や三宮で映画を観ることがあれば、可能な範囲で歩く楽しみを見つけ、あのお蕎麦やさんで私はカツ丼を頬張りたい、とおもう。観光とは名所旧跡を歩くことではない。歩くことで体の意識になにかが灯ることなのである。

(雲流れで今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまいました)

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