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2022-05-29

半藤一利氏の遺作、戦争についてを読み、五月晴れの朝に想う。

 本をじっくりと読む時間が減ってきているのは、本を読む体力が落ちているからか、さもなければ読むに値する本に自分がであっていないのではないかという気がして、久しぶりに、自分の部屋にある本ではなく、気分転換もかねて西大寺の図書館にいった。そこで半藤一利氏の遺作となられた、戦争について、という小さな本が目に入った。

戦争という言葉に、チャリティ演奏会を企画して、どこかで私はこれまでの自分とは異なる、新たな企画者として敏感になっている。何をやればいいのかということに関して、より自覚的に問題意識をもって取り組みたいというきもちが沸いてきているのだ。そのような折りに目に留まった本である。

桑江良健氏の沖縄の花

遺作のご本であり、昭和史の歴史探偵として有名な半藤氏のご本を、これまできちんと読んで来なかった自分をどこかで恥じるかのようなきもちがにわかにわいてきてページを捲り読み始めたら、止まらなくなり一気に読み終えた。詳細は割愛するが、自分の無知蒙昧を改めて知らされると同時に、頭では知っていても、体でその痛みの万分の一も理解し得ていない我が身の不甲斐なさに、忸怩たる思いにとらわれたのである。

だからこうやって五十鈴川だよりを打っているのだ。昨日の五十鈴川だよりもそうだが、齢90才のなられて病に付しながらも書かずにはいられない、死ねない執念が、この小さな本にはぎっしりとつまっている。またもや手元において起きたい本に出会ってしまった、のだ。

人は出会いたい人や、求めていた本などには出会うべくしてで会うというが、やはりで会うべきタイミングというものが、機が熟していないと出会えないのではないかという気がしてならない。機が熟していないと出会ってもなにも感じないで通りすぎてしまうのではないかという気がするのである。

そういう意味で、この間の10年ぶりの企画は、改めてこれからの私の企画者としての時間、何を企画すればいいのかという問題意識として、【戦争と平和について】私自身が考え続けることで、何を企画したらいいのか、出来るのかということが、よりくっきりと私のなかで明確になって来たように思えている。

思えばずっと無意識であれ、歴史に埋もれて発言することもなく、言葉を残すこともなく、無念の思いのなかにいまも成仏することなく、さ迷っている数多の死者たちの老若男女の魂の鎮魂を企画してきたのかも知れない、のだとも思える。否応なく運命的に自分の意思とは関係なく被害にあわれたり、【広島や長崎に落とされた人類初の原子爆弾はその最たるもの】ある日突然、戦場に駆り出されたり、あまりの貧しさに傭兵にならざるをえなかったりと、無数の理不尽な不条理にたいして。

長くなるので、今朝はこれ以上打たないが、半藤先生はお亡くなる直前奥さまに、中国の思想家墨子を読みなさいと言われ、2500年も前に戦争はいけないとすでに語っている、偉いだろうとおっしゃったそうである。打たれた。まさに分かりやすく染み入ってきた。

奥様のあとがき、編集しご本にされたお孫さんのあとがきも素晴らしい。ごく普通の庶民感覚で、いかに平凡な罪無き人々がかくも陰惨無慈悲極まる死の世界に放り込まれる人間世界の根源的愚を、繰り返さない人類の叡知を求めてやまない、でくの坊企画者で在りたい。

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