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2021-06-05

梅雨の一時、シェイクスピア作品の登場人物の音読で心に風を入れる。

 自分がまるで小さな山椒魚にでもなったのではないかと思えるほどに、休日は家の周りを散歩か買い物に出かけるくらいで、落ち着いた静かなる日々を、苦にならずに生活できている。

机に座って、集中して書いたり、読んだりしていると、どうしても姿勢が悪くなり体の気の流れが悪くなり、雨が続くと気が重くなる。そういう時にはちょっと気分転換、雑巾がけをしたり、ちょっストレッチや、巻き藁、とどめは好きなシェイクスピア作品の登場人物の音読で、身体の気の流れを良くするように、とくに梅雨の時期は心がけている。

料理も、私の場合実に簡単な金太郎あめのような、お味噌汁、サラダ野菜と麺類中心の似たような調理しかできないのだが、気分転換には欠かせない。決まりきったルーティン時間割で似たような、一見同じことの繰り返しのような日々なのだが、同じ日は二度とないと体に言い聞かせる。

歌に、帰り来ぬ青春というのがあるが、まさに人生は帰り来ぬ老春、後戻りできないのが真実である。ならば。言葉遊びではなく、過ぎ去りし時間は、二度と、二度と戻っては来ない。与えられ、生かされている今をいかに生きるのかを、生きないのか、コロナ渦中生活であろうが、なかろうが、生きてゆくことの本質は、いかに生きるのかが、大事なことだと 私は受け止める。

話は、忽然と変わるが、リア王が亡くなった末娘のコーディーリアを両腕に抱え、二度と生き返らない慟哭のシーン、まさに名作というのは時代を軽く飛び越えて、現代に蘇る。(シェイクスピア以外の作品でもなんでもいいので、好きな作品があれば一人で音読してください)

数年前、80歳のリアの台詞を一年かけて体で音読し続けたお陰で、老いの身にいまだ 時折リアの言葉がふいに蘇る。リアはすべてをなくして、心底気づくのである。

人間という存在の何という不条理、すべてをなくし、何も持たなくなって死を予感しながらの、老人の慟哭。以前は悲しくも無残悲惨なシーンと想えたのだが、それは一面の真理ではあるが、それがすべてではないという気が、術後私にはしてきた、うまくは言えないが。

名作は、読み手の年齢、置かれた状況次第で万華鏡のように、都合のいいように変化する。世界が多面的に、刻一刻と表層的にものすごい速さで一見変化してゆく。私のような愚者は恐れおののき、うろたえもするが、シェイクスピア作品の珠玉の名作の登場人物の台詞を音読すると(繰り返し繰り返し)、お経を唱えたかのように心が安らぐのである。


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