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2020-01-16

塾生のK子さんが写真の整理にやってきてくれる朝に想う。

先週と同じように、昨夜は遊声塾のレッスンで遅かったのだがいつも通りに目が覚めた。どこかまだ睡眠が足りないのだが、夜明け前の静けさが好きな私としてはルーティンに従う。
最近これはいい意味で、ゆるやかに緩やかに、老いの深まりのある種の感慨の実感を折々感じるようになってきている。

若い時には居ても立っても居られない、というようなおもいに多々とらわれたものである。感情の起伏も激しかった(父親のDNAを多分に受け継いでいる)が、そのようなおもいが弱くなってきたというか、落ち着いてきたというか、じたばたはするが、その感情をじっと受け止めるようになってきたのである。

これがいいことなのか、どうかはわからない。ただ言葉にすれば、そういう心境にようやく我もなってきたのだなあ、との感慨である。意見の相違や感情の祖語で袂を分けたような方々に対しても、穏やかに思い至れるような、いわばそういう境地になってきたのである。時間はまさに妙薬である。

そういうどことはなしに変化する、自分をできるだけきちんと受け止め、面白く生きられる年よりになりたいとの思いが最近とみにする、だが、面白い年寄りになるにはどうしたらなれるのか、いよいよ普段の暮らしの中で見つめ、考え続けたいと思う私である。
私が23年前企画したアフリカン・マエストロ

ところで、今日は午後ちょっとした珍しい人が我が家にやってくる。入塾して間もないK子さんが私の苦手な写真の整理にわざわざ来てくれるというのである。先日ほったらかしになっていた書斎の整理をいくばくかはやったのだが、ともあれ塾生が我が家にやってきたのは随分昔のこと、いつ以来か。

娘のような年齢のK子さんは、好奇心が強く物おじしない。昨年暮れから何度も写真が見たいとおっしゃる。私にとっては大切な記録写真、そういわれるとやはりうれしい。だから整理もかねて我が家に来てもらうことになったのだ、が、これまで書斎にヒトを入れたことがない。

例えが悪いがいきなり裸を人に見られるような、恥ずかしさを覚えるが、と同時にそんなことは言っていられない矛盾に陥る。だがこのような機会でもないと、また先延ばしになる。私にしては苦渋の選択なのである。絶対矛盾的自己同一。

入りたてとは言え、塾生のK子さんの情熱と人柄に任せようと(甘えようと、一応妻の許可を得て)悩んだ末決めた。普段のありのままの我が家に彼女をお迎えしようと思う。今年は早々から何やら予期せぬ出来事、それもこれも身から出た錆である。




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