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2020-01-13

いただいた年賀状、もうそろそろ義理をかくことにする。

起きて洗面を済ませ、コーヒーとバナナとリンゴをいただき、約一時間、弓の巻き藁稽古をしたのちの五十鈴川だよりタイム。二階のこれを書いている一番お気に入りの部屋には、冬の陽光がまぶしいほどに降り注いでいる。

昨日の朝はどんよりとした冬特有の曇り空だったので、冬の陽のお日様の ありがたさが沁みる。さて、玄関のお正月のお飾りも昨日妻が片付け、私の中ではお正月気分はとうに抜けている。

話題は変わるが、昨年で年賀状は卒業する旨を書いて投函し、五十鈴川だよりでも、もう賀状は卒業する旨を書いている。その代わり、今現在気持ちよく関係性が持続している交友関係や決して忘れてはならない恩義のある方には、短文の筆で描いた年賀だよりを書いている。

こちらが出した方から返事がなくてもまったく構わない。こちらが出したいから出すだけなのである。だが今年も出していない方々から50通以上もの年賀状が届いた。これをどう受け止めたらいいのか考えている。考えた末に頂いた方々の9割くらいの方々には、寒中お見舞いを書くことにしたのである。

出さない1割の方々には申し訳ないが、義理を書くことにした。その理由はくどくどとは書かない。そう決めただけのことである。だから、今日はたぶん午前中はそのことに時間を費やすことになる。

時間の都合で、毛筆ではなく万年筆での一筆になるが、私は万年筆が好きである。とにかく自筆にこだわりたい。私は 悪筆であり、文章を書くのも若い時には本当に苦手で、演劇の勉強を始める18歳までは本を読むのも苦手だった。(好きなもの以外は)だが人間は変わる。

今ではデジタルであれ、手書きであれ、つたなくとも文字を綴らない生活など考えられない。物事を整理し考えるためには
3連休の最後、この方の文章を静かに読みたいと思う
、私の場合本を読むこと以外に方法がない、といってもいい。いただいた年賀状には、やはりその人の柄や、人となりがにじみ出てくる。

私は還暦を過ぎていよいよ人生を振り返り、反省すること多々である。日本人は本音と建前(まああらゆる民族がそうだろう)を自在に行き来し、そのことでもって余計な軋轢ほかを未然に防ぐことに長けた民族である。

かく言う私だってそうである。だが、もうそろそろそういったなれ合い常識的な世界からはおさらばしたいのである。子供のころは年賀状などは書かなかったし、書けもしなかった。移り変わる自分というとらえきれない老いゆく摩訶不思議な存在に正直でありたい、との一念が強くなったのである。

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