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2020-01-19

夜明け前、人生の晩秋時間が始まる自覚が深まる朝。

私の好きな夜明け前、家人は寝入っている。このお互いの生活の中での時間のずれがいいのである。ほぼ34年ともに暮らしているが、新たな初老生活夫婦関係に自然な形で移行している最近である。

初老男としては、できる限り妻の手を煩わせないで、お互いに一人ででも生きてゆけるように(やがては車も運転できなくなる)との思いが、手の届く範囲の生活の基本が滞りなくでき、やがて最後は嫌が上でも他者の手を煩わすことが少ないようにとの、ささやかなおもいの深まりゆく年の始まりである。

朝からいきなりこのようなことを書くとは思いもしなかったが、思いもしなかったこと、よきもしなかったことを、時折書いてしまうのだが、わが体は思い通りにはならないのである。お休みの日、起きて間もない時間帯の方がじっくりと余計なことを考えず、かってに指が動き始めたりする。そのことが面白い。


私もシーナ大兄にずいぶん影響を受けました
アクシデントはいやであるが、良き思わぬことは大いに歓迎である。些細でとるに足らぬ極めて当たり前で、普通のことを、あらためて面白がる精神こそが、これからの老いゆく世界を豊かにしてくれるのではないかとの、淡き幻想のようなものが私にはある。

粗忽物の私としては、これまでには経験したことのない未知の老いゆく世界を前にただただ茫然としているだけではあまりに能がないので、考える体力があるうちに、体を動かし、俊敏な思考は叶わぬにもせよ、一日でも長く思考の持続力をキープしたい、のである。

だからなのだろう、写真の整理も余裕のあるうちにやりたいのは。 ゆっくりとできることを、時間をかけてゆっくりと丁寧にやれることを、これからは面白がれる様に生きてゆければ、それが一番今の自分には正直で気持ちがいいことなのである。

だから、ことさらに新しい刺激などは不要である(もう十分に刺激を受けた)との思いと同時に、これからの新しい時間をこそ大切にし、過去の生活時間で生まれた交友関係ほか一切をリセット、再構築し、生きたいとの思いなのである。世は100年時代だとか、かまびすしいが、このような惹句には私は一切関心がない。未来のことはどのような賢者も予測不可能である。

私の中での老いゆく力が、(これまでの私の過去の時間の中で蓄積された力)シェイクスピ遊声塾を立ち上げた時、これまでの自分が情熱を燃やしたことには決別し、私は新しい世界に向かう覚悟を決めたのである。あれからまる8年が経とうとしている。

だからこの8年間、西アフリカへの旅や、さまざま企画プロデュースした作品への思い出など、一切無意識に封印していた。だが、たまたまK子さんがやってきてくれたおかげで、しばし過去にやってきたことの証左写真を前に、自分との再会時間が持てた。タイミングというしかない。だが、過去を振り返るのは前に進みたいからである。

昨日、五十鈴川だよりを書いた後、終日部屋で静かに冬の一日を過ごした。激しく体を動かせた人生の季節が過ぎ、穏やかな秋の人生時間が始まったのである。












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