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2019-02-27

久しぶりにお昼前の五十鈴川だより。

お昼に近い午前中に五十鈴川だよりを書くのはほとんどない。今日は午前中の肉体労働がないからである。

ところでこれを書いている今お天気は曇りだが、朝一番メルと散歩に出かけた際の、日の出前の一面の、なんとも言えないピンク色の朝焼けの空に、私は見惚れた。このようなことがあると、単細胞の私はいまだなにがしかのささやかな幸福感に浸れる。

それから家に戻り今まで、今夜の塾のレッスンのことや、新聞にじっくりと 目を通していたらあっという間に、この時間になった。気分転換の五十鈴川だよりである。

私には取り柄らしきものがほとんどない無知蒙昧初老男であるが(信じてもらわなくて結構だが、本当にそう思っている)新聞を(ほとんど読むところは決まっているが、へーっと思える記事をあえて見つける喜びがある)読むのも、本を読むのも無知のなせるトラウマというか、青年時代に食う、生きるにいそがしく、またはそれを口実に、(世界の豊かさ、素晴らしさを)あまりに学ぶことに勤しまなかった後悔が、すこぶるあるがためである。(と思う)

このような先生の講義を受けたかったが、間接的にいまだって学べる
だから、労働(これが基本)と学びの加減のいい塩梅というのが、これからの人生時間私の場合大事なのである。何よりも家族や身近な人たちとの生活を基底に据えながら学べれば、 もう私にはあまり望むこともない、のである。(健康に声が出せれば)

若い時とはずいぶんな転向、あくまで無理なく体を動かし、健康に生活しながら何か自分にいい影響を及ぼしてくれるような、見えないもの、本や映画や、人ほか(出来事)に巡り合えれば足りるのである。

あとは先日も書いたが、老いてゆく中であるからこそ、感じられるような感受性感覚を磨ければと、淡い期待を・・・。

平成の終わり、昭和初老男児は超音速デジタル時代(時代が進めば進むほどおぞましい兵器を人類は作り続け、どこかで必ず突然使っている)事が起きれば阿鼻叫喚の地獄絵となる)に背を向け、どこか隠遁したくなるのだが、(隠遁するとすればわが故郷しかない)時代のわけのわからぬ動きには絶対矛盾を生きながら、今しばらく目を凝らさないと、何やら不穏である。(安心しての隠居などしばらく無理である)

平和はボーっとしていると、津波のようにある日突然損なわれる、肉体労働をしながら、初老男は平和を噛みしめる。 ああ、とりとめなき五十鈴川だよりになってしまった。

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