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2019-02-26

義父の命日、あまりの暖かさに不安を覚える私。

何やらちょっと陽気の気配が例年になく早く春にすでになったのではないかと錯覚しそうなほどの陽気である。

でもやはりこれは確実に天候異変、温暖化、等々のあまり五十鈴川だよりでは、書くのがたっめらわれるほどのなにがしかの大いなる予兆ではないのを、凡夫としては祈るばかりである。(日本だけではないが、地震や台風をはじめとする自然災害の増加には言葉を失う)

春が来るのはうれしいが、冬は冬らしくあってこその春の恵みである。老いてくるとよくわかるが今からすでに夏の暑さが思いやられる。

話題を変える。今日2月26日は義理の父の命日である。実父が2月5日、二人とも2000年に亡くなった。私の生誕と、二人の父が亡くなったのが同じ月。生と死を想う。

生きて元気なうちに古典作品を音読したい
心なしか、私が両父の亡くなった年齢に近づくにつけ、以前にもまして両父のことをいい意味で憶い出すようになってきた、死者との対話。

それはきっと、私がいい意味で老いてきて、心のどこかなに物のけを想うような 、もっと言うなら、死者と想像上でのやり取りを空想する余裕が生まれてきたからである。(とおもう)

それは死者のみに限らず、生きている身近な他者にもかすかに向けられてき始めたかのような、(他者をどこかいとわしく思う余裕)

そんなことを書くと何かと、オカルト的だが、早い話私は生きてはいるが 、もうすでに半分近くは、死者の側の世界に時折揺蕩っているかのような、按配の前期高齢者なのである。

思いもかけぬ、だしぬけの春を思わせる、ちょっとついてゆけないほどの陽気に、五十鈴川だよりも戸惑っている。

最後に、ドナルドキーンさんの冥福を心から祈る。




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