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2018-06-06

雨音に耳を済ませ、五十鈴川だよりを書きながら考える。

昨日書いた五十鈴川だより、池谷雄二先生の名前は、裕二が正しいので訂正します。勢いで書いているので、誤字や打ち間違いや繰り返しがあるのは、もうそのままにしているのだが、名前だけはは気づいたら訂正する。(人間は間違う、そこが機械とは違う、間違いや失敗をしながら、ゆるやかにらせんを描きながら、成長したいもの、との側に私は希望を持つ)

さて、梅雨に入った。雨音で目覚め、朝のお散歩はなし。雨音に耳を傾けながら何やら湧いてくる言葉を紡ぐのは、ささやかな小生の初老の楽しみ時間と化している、この頃だ。

生きている限り、そこはかと、あるいは幻想と言い換えてもいいかもしれないが、よりよく日々を生きる(送る)ための工夫のようなことを、自分に課さないと私は不安である。

殺されたくもない・まして殺したくもない、重いテーマに切り込んでいる。

課さないと、私ののような愚鈍な輩は、安きに流されてしまうとの多少の自戒がまだ働くのである。これが働かなくなったらまずいなあ、との恐れである。

書いてはいないが、新聞やテレビでの報道にはうんざりしながらも、遠巻きに関心は持ち続けている。うんざりしている間に、肝心なことが(働き方改革ほか)与党の数の論理で、十分な審議もされないまま決まってゆく。

(他者を批判することはたやすいが、責任ある国民一人一人がしっかりしないと)お金という経済優先魔法世界に、身も心もむしばまれてゆく。(私も相当むしばまれている、だから考えるのだ)

どこかに危惧を抱きながらも、日々の暮らしの中で忘れ流されてしまう。歴史始まって以来の、超多忙化IT時代(私はデジタル世界を否定しているのではない)のさなか、どこかこころや体が悲鳴をあげているにもかかわらず、その声なき悲鳴に、見て見ぬふり、(あるいは感じながらもどうしていいかわからない)をしているかのような、時代の趨勢を五十鈴川だよりを書きながら、小生はまずいと感じている。感じたら書く、個人で。あきらめるのは愚である。

つましい暮らしの中で、何よりも体にとっての気持ちのいいことを、(経済優先社会の中)見つける。私のように世の中に出て、ほとんどお金というものに縁のない暮らしを、底辺でしてきた中で見つけた、ささやかに知恵と工夫を凝らす生き方。

限られた年金暮らしの中で、かくも長きにわたって一人で豊かに生きている母を、私はそばで18年間接していて感じ入る。あのように生きられれば、(健康であるのが大前提だが)贅沢さえしなければ、さほどお金は不要だ。もっと言えば、精神のぜい肉がつかない、いつも完全燃焼。

ヒトを思いやれる社会を私は望む

貧乏ではあれその日がしのげれば、上を見ず下を見て、その中で見える世界を楽しむ。贅沢とは何か?体が気持ちいいと、こころも気持ちいい。

心と体は同体である。心会っての躰、身体あっての心なのである。例えば、水を浴びて体を洗うと、それだけで気持ちがいい。声を出すと、整理整頓すると、掃除をすると、花を愛でると、本を読むと、散歩すると、料理を作ると、手紙を書くと、ちょっとおしゃれをすると、新聞をよく読むと、ピーンと来る記事があると切り抜くと、体操をすると、妻とDVDを見ると、などなどずらずら。

池谷先生もおっしゃっていたが、健全な体に健全な心が宿ると。唯一無二の体が、お金という幻想に振り回されないように、五十鈴川はただただ、摂理に沿って老いてゆきながら低きに流れてゆきたいと、最近考えるのである。


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