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2018-06-23

望晃くんの生誕から3ヶ月、梅雨空に想うつれずれ。

我ながら望晃くんが生まれたからなのか、自分がこれまでの自分とは、ちょっと変容したかのような気持ちになったりするのは、やはり老いてきたからではないか、という気がとてもする。初めて経験する、未知なるゾーンを、可能なら綴りながら自己検証したいという業のようなもの。

徐々に徐々に変容しながらも、何かを綴りたいという、老い力のような、いうに言えぬ初めて沸き起こる。老いの情熱は、私の場合どこから湧いてくるのか、自分でもようとはわからない。


同年代のほかの方々とは、比較しようもないが、自分はますますもって自分らしく素直に生きてゆきたいという思いが、ぞろ目の(66)この年からはっきりと、老いを自覚して生きる元年なのだという思いが、深まっているのは紛れもない事実である。

だからなのかもしれない、この数か月、望晃くんが生まれてからというもの、ずいぶんと五十鈴川だよりを書くという、あるがままの営為に、拘泥している新しき老いの力のようなものを、どこかに感じながら書いている。

内なるみえない力の源泉がどこから来るのかは、自分にも皆目わからないが、ただ言えることは 、幼少期から青年期に至る、さまざまな記憶の集積が、晩年の日々の生き方を照らしているのだという自覚の深まりである。

朝からこんなことを書くのは、いささか気がひける感無きにしもあらずだが、老いの体に湧き出流、感情のつれずれを、今後ますます、をわがあるがままに、 自在に流れゆく五十鈴川だよりになってゆく。

人間という摩訶不思議な器としての個体は、いかようにも己に都合よく態 変(変節・変身・脱皮)を私の場合は繰り返している。そのような気が。(狡猾な器としての)

その中で変わらない普遍的に自分にとってのかけがえのないものにしがみついて、深い意識の底で普段は眠っている感情に突き動かされながら、日々をの暮らしを再生、持続しているかのようなあんばいなのである。

今は亡き談志師匠は、落語は業の肯定だとおっしゃっているが、その言をもじれば、いよいよもって、五十鈴川だよりは業の肯定の晩年に入ってきたのだという自覚である。

いきなりだが、年賀状も今年で終わり(縁深き方との新たなる交情はまた何か考えたい)にすることにした。決断し何かを手放さないと、との老い力の思いなのである。

望晃くん の生誕は、私のこれまでの人生を整理させ、私の未来の老いの時間の行く末を照らす。まったく私はいい加減である。

生後3ヶ月が過ぎ、親ばかレイさんから写真や動画が送られてくる。爺バカになるのでこれ以上は書かない。




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