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2018-06-03

望晃くんとのデジタル電話で目覚めるサンデーモーニングの朝に思う。

孫の望晃くんとの、思わぬ朝のテレビ電話を終えての五十鈴川だよりのいっとき。遊声塾と弓道教室の翌朝は、いつもよりゆっくり起きる。土曜、日曜は妻と共にゆっくりと朝食をする。(間接的にデジタル世界のおかげでの孫の成長が拝める、おじじ、おばばは幸堪である)

朝の声出しをしない時は、夕方にする。いずれも一日のどこかでは、声を出すように心かけている。弓もそうである。だいたい5種類くらいを循環してやっていると一日が、ゆるやかに過ぎてゆく。わが老いらくの日々が緩やかに過ぎてゆく。

小さい時からの、自分の弱点である、堪え性のなさのトラウマを、どこかにいまだに引きずっている。(そのトラウマを今はいいほうに考えていて、元気な間は一日でもそのトラウマとお付き合いしたい自分がいる、自分の最大の敵はほかならぬ自分である、自分と向き合う)

話を変える。大部な読み応えのある本の合間に、読みやすい本を交互に読む。あるいは朝は手ごわい本を中心に、食後や寝る前は、滋養になるような本を読んで過ごしている。

また、二宮金次郎ではないが、素読でヒントを得たのだが、歩きながらというか動きながら、読みやすい本は読むようなことも最近は試みている。(要は遊、遊しているだけである)

じっと集中して読む本、動きながらでも集中して読める本 とが、わたしの場合はある。いずれにせよ、その本に対していかに集中できるのかが大切なのである。

出口治明先生は速読をしないと、おっしゃっていた。書きこみもしないし線をひいたりもしないと。私は遅読である。そういう意味では出口治明先生と佐藤優先生は対照的であるが、もって生まれた読書体質が異なるのだと思う。出口先生は本を読む前には手を洗い、背筋を伸ばして読むと書いておられた。達人はやはりどこかが違う。

いずれにせよ、自分らしく、自分の体で読み砕いてゆくしかないし、その方法は千差万別であっていいのだと思うが、うーむ、とどこかで感じ入りなってしまう。爪の垢でも参考にしたいと思う。

ヒトとお付き合いする時間を減らし、最近本当によく図書館に行くようになった。(いささか遅きに失した感がるが、先生のおっしゃるように今が一番若いと思おう)ゆくと必ず本に巡り合える。前もって探しにゆく本と、図書館で出会う本が私の場合在る。
昨日図書館で出遭った本、タイトルからして面白い。

ブロブのデジタル時間感覚と、リアルタイム時間を感覚との併用を心がける私だが、本を見つけるのは、ほとんど図書館である。5感と第6感で見つける。

まあ、本屋さんとか、図書館が私は好きなだけで、歩ける身体で見つけているだけなのであるが、動けない方にとってはデジタル世界はまた異なる意味で豊かな本との出会いをもたらす。デジタル世界も素晴らしい。もし私が動けなくなっても意識が動いているのであれば、きっとデジタルワールドに遊ぶと思う。

ともあれ、ありがたいことに、いまはまださほどデジタル世界に頼らなくても、直接体験的な、リアルワールドの世界を、楽しめるわが体とのお付き合いを優先しているだけである。本を含めた、おいしいものを直接いただく喜びは、狩猟本能やはり格別である。

デジタル化される以前に、昭和青年期を過ごした私は、きっと繰り返し あの世界にしがみつき、あの世界に回帰することで、この超音速デジタル世界を何とか生き抜く術を見つけるべく、今しばらく晩年時間をじたばた生きねばと思う。心はデジタルのようにはゆかぬ、望晃くんのためにも、おじじはじたばたするのである。

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