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2016-12-05

老いの効用が深まる師走時間。

師走もはや5日、おかげさま。で穏やかな師走時間が送れている。一日を可能な限りリズム軽に過ごせるように、寝る前に大まかに明日やることを考えるようにして床に就くことを、最近きわめて意識的に行っている。

以前から大まかにはやっていたのだが、より意識的に 心かけているのである。そのせいか日々の暮らし方の行動範囲が、限りなく小さくなり決まりきった範囲を移動しているかのような、最近の日々なのだが、それで事足りている穏やかさというものに、限りなく充足している。

つまり、老いの功用ののようなものであると、かってに私はせまい範囲の日々を楽しんでいる。動けることを意識しない時間の果てに、若い時のようにはゆかない体の奥深い気づきを、いわば意識的に楽しもうというのが最近の変化である。

オーバーに表現すれば、一日一日を悔いなく送りたいという、ささやかな老いの欲といったようなものであるかもしれない。

といってもあまり深くは考えない。まずは緩やかに動きながら考える 。というより、動いていると思考が動いてくるのである。このブログの一文だってそうである。一行が次の次の一行を生むのであって、取り立てて書こうとは思わなくても、書いていると文章がかってに決まってくるのである。

まったくの自然体、自分で次何を書くのか判然としなくても、生まれてくるのである。それが私にとって今を生きている事実ということになる。

朝からこ難しいことを書いているが、話題を変える。このところ妻の母と過ごす時間が、本当に増えたと思う。老いてゆく母の人生に寄り添える ようにありたいというか、どのようにしたらあのように、老いを生きられるのかを、少しでもそばで体感したいからなのである。

妻は今もフルタイムで働いているので、その代わりといっては何だが、あれやこれや私ができることは、やっているしやろうと心かけているのだが、御年84歳になる母は、まったく自立していてまったく手がかからず、絶えず私たちや孫の行く末に思いをいたしている。

私も限りなく母のようにありたいと最近とみに感ずるのである。とはいうものの一朝一夕に母のような境地に立てるはずもなく、なるようにしかならないのだが、人生に近道はないのだという気が日増しにするのだ。

寄り道の多い人生を今も生きている気がしているが、寄り道は楽しい。論旨のまとまらない朝ブログになったが、恐縮至極、そろそろ竹韻庵に向かう時間である。今朝はこれにてお開き。

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