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2016-12-13

年の瀬が近づきつつある師走の朝ブログ。

本当にブログを書く頻度が減ってきた。以前は、はやったり、(書かなくちゃtぴうような)焦りにも似たような感覚が付きまとっていたような気がするが、ほとんどそれが無くなるつつある。

わずかな人ではあれ、つたなき気まぐれな一文を、きちんと読んでくれる人がいてくださるということが、ささやかなわが励みともなっている。在り難いことである。

最近というか、私の中での晩年時間の今を生きる、ささやかな情熱の根拠は、ただ単にシンプルな生活人 でありたいという一点に集約されてきつつある。

一寸先のことがいよいよもって五里霧中、正邪、善悪の境界が、まったくもって見えにくい時代性の中、私が頼りにできるのは、手の届く範囲でただただ自分の体が心から喜ぶようなことを、やって過ごしたいという、はなはだもってシンプルなものである。

オーバーな表現をすれば、夢が原退職後、私が始めた、声を出して 遊ぶことや、土に親しんで過ごす時間というのは、手ごたえというか、自分の体が喜んでいるということが、単純に自覚できるのである。

もってうまれた性格と時代性に起因するものであるので、いまさらどうにもならない、いわば宿命との認識が私にはある。

話は変わるが、最近買い物や料理、掃除などの家事一般を以前にもまして楽しめる自分がいる。冬のストーブの薪づくりもその中に含むが、そんなこんなを一日の限られた時間の中で、意識的に楽しんでやっていると、あっという間に一日が過ぎてゆくのである。

それに再び、一度しか読んだことのなかった、膨大なシェイクスピアの作品を35年ぶりに、全部声に出して読むということも始めたので、ますますもって一日が貴重に過ぎてゆくのである。

ということで、平均週に一回から2回くらいのペースで五十鈴川だよりを書ければいうことなし、という最近の暮らしなのだ。

フェイスブックやライン、友達申請ほかで、多くの方に不義理を重ねている現実に対してこの場を借りて平にご容赦願いたい。

感動というものは、めったにないから私は感動する。友達とのたまさかの交遊も、たまにだから交友を温め合うことがうれしいのである。お手紙に・勝ものなし・心かな。

静かで穏やかな暮らしというものに、歳と共にひかれてゆく年の瀬の私である。

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