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2015-11-08

ペンキ塗りしながらら、母の育てた野菜を食べながら、いかに生きるか考える。

昨日は、午前中車庫の上の二階の屋根に上り、つまり瓦を踏みながら、万一のために腰にロープを巻き、そのロープの先は部屋の柱に巻きつけて二階部分の外壁の縦柱や横柱ほか、木部のペンキ塗りをした。

よもやまさか、ここまで自力では無理だろうと思っていた部分まで塗ることができて、私はいたく満足した。妻がお休みだったので、あれやこれや協力作業ができて、また一つ思い出ができた。

外壁の柱部分はほぼ9割近く塗ることができた。やればできる、為さねばならぬ何事もだ。外壁塗装も勉強しながら、 手の届く範囲は自力で塗り、手の届かないところは二段梯子を借りて一度やってみて、無理なら業者に足場だけ組んでもらい、あくまで自力で、と考えている。

液が垂れたりして、ああ、とは思うが、刷毛の使い方もかなり慣れてきた。痛い思いの中から、失敗しながら何事も学ぶ、それが一番確実だし、やり遂げると自信がつく。

自分に自信がつくということが、一番肝要なことだ。生きてゆくことにまったく自信がなく18歳からスタートした私だが、あらゆるお恥ずかしき失敗、自己嫌悪の果てに、漸くにして人並み程度の大人になるのに、大いなる時間を 費やしたという思いに至る。

ブログでは、まだ気恥ずかしくて書けないが、きっとこれからはささやかな自信に支えられ、愉快な日々が、世の中が平和であれば続けられそうな予感がしている。絶望から希望へ。

それには、健康に体が動く日々を今しばらく持続するために、食と命の循環には鋭敏でありたいと私は考える。

一ページ一ページが沁みる
今だからこそやれること、起きてから陽が沈むまでの時間を、まず第一義に、

わずかな夜時間は、明日への英気を養えることに重きを置いた時間の過ごし方を心かけたく思う。

母がお昼を共にするために野菜を抱えてやってきて、3人で昼食。

小松菜の間引いたサラダ、ほうれん草のお浸し、いずれも母の畑で育てた野菜。このようなベイビー野菜はスーパーにはない。

成長しきった野菜ばかりである。

実はベイビー野菜の栄養価は格段に高いらしい。やわらかくていくらでも食べられる。自分で育てた野菜を自分で調理し食べる。こんな贅沢ほかにない。

高価なレストランにはゆけずとも、安価で豊かな食はやりよう次第でいくらでも可能なのだ 。動ける身体と数人の中高年の愉しい妻も含めた仲間があればいいのだから。

今年は久方ぶりに、遊声塾の忘年会を我が家でやることにした。娘たちも巣立ち(下の娘も就職が決まった)あらゆる意味での感謝をこめ、これまでとは異なる新しい再出発を寿ぎたい心境なのだ。

話は変わる。実は、18歳から20歳まで私は小さな演劇学校に通っていたのだが、その間、同じ年齢でともに学んだT氏が(その後は音信が途絶えていた)風の便りで亡くなったという連絡が、先日夜突然はいった。

私と同じ年、あまりに早い。私は多様な思いにとらわれる。命の有限性とあまりのはかなさ。私の脳裏には、青春時代の彼の記憶しかない。

いかにして死を迎えるか、そのためにはいかに生きるのか、哲学的な命題は永遠だが、私なりの人生のもの語りを、紡いでゆくことの中にしかない、との思いにかられる。

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