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2015-11-15

パリで起きた報復のテロのあまりの不気味さに慄然とする。

穏やかな日常生活をこよなく愛し、雨音を聴きながら植えた作物の生育具合におもいを馳せられるる、今の暮らしに飛び込んでくる、いきなりのパリの同時多発テロのニュース。

真実がかくも情報操作されやすい時代においては、五十鈴川だよりごときは、軽々には何も書きたくはない。

ただ単に思うことは、世界は豊かに暮らせる人たちと、かくも貧しい人たちの暮らしににかくも分断されているといった 、まごうことなき私が感じる世界の真実である。
根付くチシャトウ、命の野菜

それは遠い世界のことではなく、このバブル以後の日本でもにわかに起こっていること。

というのが今現在を生きていて思うことである。

非正規社員が4割近くもいるこの国、シングルマザーや、マタハラや、いじめ問題がやまないこの国、

介護での陰惨なニュースがやまない国、偽装問題がやまない国、経済大国でありながら子供の貧困率がかくも高いこの国、あれやこれや書き出したら暗澹たる思いにかられる。

この年でさえも、世界のあまりの不条理には時折怒りの感情が湧いてくるのに、世界の過酷な現実を生きている多くの国の鋭敏な若者たちが、なにがしかの反応をするのは自然ではないかと、五十鈴川は感じる。

だが、断固として卑劣な無辜の民を巻き込む爆撃や、報復のテロは、どのような大義があっても許されることではないと思う。絶対矛盾。

今のところ安全なところから、対岸の火事のように無責任に一庶民として思うことは、世界は今や完全なグローバル化とバーチャル化された世界を冷静に生きてゆかざるを得ないという、かくも厳しい現実である。

それはとくに、これから家庭を持ち未来を生きてゆく若い世代のみならず、年齢に関係なく生存感覚を研ぎ澄まして、不正や不条理に対して一人の人間として目をそらしてはならないと思う。

暴力の復讐の連鎖を断ち切るためにはどうしたらいいのか、臭いものには蓋、長いものには巻かれろもまた、弱い人間の一面の真理ではあるかのしれないが、ほかに方法がなければ救いがない。

五十鈴川は日々流れながら、個人として、野菜を育てながら、安全や家族の平和について、ささやかに極端に走らない方法を思考停止にならないように、お気軽であれ我が身のこととして考える。

人間の存在や、命がかくも軽々に爆弾や銃で亡くなる事件や戦争が、日常的にバーチャルに画面を通じて垂れ流されると、身体感覚がかくも麻痺するという恐ろしさ、慣れることの不気味さ。

血が流れる、痛いという身体感覚的な想像力、他人(他国の他者の人間の叫び)の痛みへの欠如が失われゆくことの恐ろしさ、平和時間が続く中で、感性のアンテナがさびないようにするには果たしてどう生きればいいのか、考える。

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