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2015-11-10

遊声塾塾生と全身で声を出し今を生きる。

11月に入って時間に余裕ができたせいでもないのだが、ずいぶんとブログを書いている。ときに呆れながらも、書き続けることは私にとっては生活の中の一部となりつつある。

無理してでも書きたいときは書き、書きたいことがあっても余裕なき時には書かないというのが、このところの五十鈴川だよりである。

最近、遊声塾のことをほとんど書いていないが、月に一度しか参加できない人、月に2日しか参加できない人も含めると、現在塾生は8名ほどいる。

正直、塾を始めるときに、これほど人が私の塾に参加してくれる人がいるとは思いもしなかった。とにかくまずやろうと 、ひとりでも参加してくれる人がいたら、続けようというくらいで始めた。

まずは、自分自身が声を出すことの中から、ようやく手にしたセカンドライフ、限りなき自由時間を、経済観念に侵されることのない無心状態に解き放ちたいと思ったのである。

あれから二年半が過ぎて、最近塾がにわかに活気づいてきた。適度な人数による充実したレッスンがようやくにして可能になってきたように思える。

何より私自身が、始めたころよりも声を出すのが愉しくなってきたのである。
翻訳者の素晴らしい日本語に打たれる

始めた当初は何しろ30数年シェイクスピア作品を声に出して読んでいなかったので、身体がずいぶんさび付いていて、

勘がなかなかも戻らなかったのだが、若いころのようなわけにはゆかない面ももちろんあるが、若いころにはできなかった表現が歳を重ねたことで可能になった面もあり、つまり愉しいのだ。

これは私が独自に始めた方法なのだが、

輪読といってどんな登場人物も年齢、男女の区別なく 読んでゆくスタイルを塾生と共に、時に私も参加して実践している。

一人で声を出し続けて読むのはなかなかに大変だが、4~5人で読むと実に面白いのである。

Y氏が女性のセリフを読んだりすると、にわかには信じられないような表現がおきたりして、まさに意外性の嘘の極致というしかなく、 面白いのだ。

10月末、Y氏の中学生のときの同級生(同じクラスにはなったことはなくが同窓会で再会されたとのと、50数年ぶり?)の女性がレッスンを見学に来られた。

たまたまその日は参加者が少なかったので、私も含め3人で間違いの喜劇を読んだのだが、ずっと3人が読むのを聞いていた女性が、我々が読み終えると拍手してくださり、自分もこの塾に参加したいといってくださったのである。うれしかった。

先日、この方も初めて輪読に参加したのだが、おそらく清水の舞台から飛び降りるような気持ちで参加されたのではないかと推測する。案ずるよりもである。

とまれ、いったいいつまで続けられるかは塾長である私も皆目わからないが、愉しくレッスンができる仲間に今のところ囲まれている私は果報者である。私は愉しく笑える塾を目指す。

そのようなわけで、遊声塾 の参加者が急に増え、私としては望外のこころもちの日々を毎週二回過ごしているのである。現在、間違いの喜劇と夏の夜の夢、カルチャーでは、お気に召すまま、を読んでいる。

奇想天外の、まさに途方もない言葉の洪水は、息の浅くなった現代人の初老の私の肉体には 、手ごわいなんてものではなく、時に遭難しそうになるが、かろうじて声が出せる間は、塾生共々、そびえ立つシェイクスピア作品群に挑戦し続けたいものだ。



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