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2015-08-23

ささやかに知る、学ぶを、カタツムリのように繰り返す夏の終わり。

再三、私は自分の無知蒙昧さを、五十鈴川だよりで書いているが、ついでというわけではないが思慮の足りなさ、浅薄さもいまだ十分に感じてはいる。

いきなりこんな書き出しでは、自分が何を書きたいのかが判然としないのだが、人間は自分でも制御しきれない想いとか,曰はく言い難い感情に突き動かされたりもする、生き物である。

なぜ、自分がそういう行動をしてしまうのか、またあらゆることに自分の場合いえるのだが、うまく説明できないジレンマに陥る。なぜ、10年以上気になった書評を切り抜いて、手間暇かけてノートに糊で張ったりするのか、よく考えると自分でもよくはわからない。

ブログだってそうだ、好きだから、自己満足だからとか書いているが、よくははわからないのである。なぜ声を出すのか、旅に出かけるのか、山に登るのかとか、あらゆる好きなことを訊かれても、その理由を言葉で明快に説明するのは、哲学的な領域に踏み入らないと無理である。

人間は限りなく自己主張し、自分を正当化し安心する生き物であるということを、自分でも 強く認識している。でも、大人ならば懐疑的に物事を多面的に思考する勇気がないとまずいと思う。

なぜか仮想敵を想定し、自分たちの側が絶対的に正しいと信じて疑わなくなってしまいがちになる。果たして自分たちは正しいのかと、ちょっとは立ち止まりながら考えられるくらいのゆとりなきリーダーにこの国のかじ取りを任せるのには、はなはだの不安を私は直観的に覚える。

私の漠然とした不安が杞憂で終わることを私は心から望む。6月、7月、と国会議事堂前に私は、物見遊山的範囲で、安全保障法案に異議を唱える多くの人々の中の一人として参加した。

そして、八月最後の金曜日揺らぎながら、出かけようか、出かけるのを控えるのか、初老の私は、ハムレットのような心境である。

話は変わる。昨日夕方雑誌を買いに岡山の書店に出かけた。戦後70年を特集している雑誌を買った。ダカーポの特集と、音楽評論家の渋谷陽一氏が責任編集しているSIGHT、と中央公論の3冊。

中央公論に五木寛之さんと社会学者の古市憲寿(のりとし)さんが、50歳の歳の差を感じさせない、若々しい対談が掲載されていてすぐ読んだのだが実に面白く、うーんと唸った。

古市憲寿 さんという社会学者の存在も対談で初めて知ったが、あきらかに優れた今の感性世代が出てきているのを知らされた。それにしても私よりも20歳年上の五木寛之氏の感性のアンテナの若々しさ、思考のしなやかさには恐れ入った。(なぜあのようなしなやかな思考が可能なのか)

老いるのは自然の摂理だが、思考までが柔軟なさを欠いてしまう年配の方々が増えているように思えてならない(自分も含めて)。(五木さんの若々しさは一日にしてならずであるのは言わずもがな)

若くても、離党した、それこそ自己本位、利己丸出し本末転倒武藤議員のような鼻持ちならない輩もいるし、要は年齢ではなく、外見でもなく老いも若きも中身なのだということは、自明の理なのだが、あまりの国の行く末を左右する国会議員のレベルの低さには言葉を失う。

SIGHTという雑誌では、魅力的な識者が読むに値する論を展開し思考の浅い私にいろんな考えを示唆してくれる。やはり虚心に学ぶ、感じるということがいかに大切なことであるかを知らされる。ちょっと油断すると鏡は曇る。あきらめては脳も開花しない。

それにしても、自分を磨くことも反省することも知る謙虚さも学ぶことももなく、他者の痛みを想像することもなく臆面もなく 議員(権力にしがみつく議員のなんと多いこと)が続けられていることが、私は理解できない。

(作家であり臨済宗住職である玄侑宗久さんが、政党政治の危機を福島での佐藤優さんとの対談で述べられていたが、はなはだ個人的にいまの政治家には失望感を禁じ得ない)

立憲主義を(何のために憲法をいただいているのか国の根幹が崩れる)、一方的に一内閣で勝手に解釈 変更したりする今の暴走内閣には個人的に異議を唱え続けるしかない。

集団的自衛権はじめ、憲法改正、国の大事は国民上げての大きな情熱のなかで、ゆっくりと議論熟慮されたのちでないと無知な私は納得がゆかない。








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