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2015-08-20

佐藤優著【知の教室】を読む。

以前、佐藤優さんのことを勝手に先生だと思っていると書いた記憶がある。初めて氏の本を読んだのは【国家の罠】だからもう10年以上も前のことになる。

10年以上前といえば、まだ私は遠距離通勤しながら普通に忙しく働いていたし、落ち着いてじっくりと本を読むなんて暮らしもまだまだできなかった頃に、佐藤優さんの本が私に与えた影響は、やはり大きいと、いまあらためて感じる。

外務省をやめられて、作家として再出発してから今年で丸10年になるという。この間の氏の書かれた著作の数はいったいかほ どの冊数になるのかは見当もつかないが、ただただ半ばあきれ、多面的な左右なんて概念を軽々と飛び越える仕事ぶりには驚かされる。天才的。

氏が国策捜査で逮捕勾留されなければ、ひょっとして佐藤優という稀な作家は誕生しなかったのかもしれないと考えると、まさに神のみがつかさどるこの世の有為転変の流れというしかない。

たまりにたまった火山が爆発したかのような仕事ぶりというしかないし、時代の寵児のように氏に仕事を頼む編集者がひきも切らないということは、何故か?

まさに時代が氏の著作を求め、支持する読者層が増えているということなのだと思う。私もまたその中の一人ということだと思う。

一見簡単に読める対談集から、読んだこともない本(哲学書、宗教書,はじめ多岐の分野の)がわんさか出てくるちょっと難解なまさに佐藤優 を佐藤優ならしめている知の世界の豊饒さが私を、先生といわしむるのである。(キリスト教神学を大学から学び続けている氏は、ある種どこか超越した世界に到達していると、私は感じる)

このような先生がいたらなあ、と自分の年齢を忘れて思わせられるほどに魅力的だ。読んだこともない未知の本が次々と出てきても(出てくるから)氏の本は私には面白い。

キリスト教神学という学問があることすら私は知らなかった。氏はわくわくするくらい未知の世界の扉を開いてくれる。目先の効率的勉強(それはそれで認めてはいる)などには目もくれない。

勝手に私が思うには、氏は自分の頭できちんと読みこなして、自分の文体、(読者層によって文体を変えている)言葉にしているからこそ、つまり言葉に真摯さが満ちあふれているから心に響くのではではないかと。硬軟併せのむ愛と寛容の純粋性。

知的教養のない私が、(心から私はそう思っている)かってに先生としてわずかでも独学するには、とくに読んだこともない分野の、苦手な本を読んでみたいと思わせられる未知の世界の水先案内人としては、氏はまさにこれから先を生きる上で、最適の信頼できる人である。

私の読書は偏っているという自覚があるが、これから少なくなる人生時間の限られた読書j時間は、読んだことのない分野の本を読み、繰り返し読みたくなる本に囲まれて、生きたいとと願う。

ところで10代の終わり世の中にでて数年間、私は五木寛之さんのエッセイ、ゴキブリの歌とか風に吹かれてに、かなり影響を受けた。世界中のアウトロウ、難民デラシネに対する思いも。私が初めての海外放浪留学から1978年、12月、モスクワ鉄道で帰ってきたのは、霧のナホトカ航路の影響だ。

そしていま、この10年近く最も読んでいる作家のひとり佐藤優さんと五木寛之さんが期せずして対談している新書版の本が出た。なぜこの二人がいま対談するのかが、読んでみてすぐ腑に落ちた。

体験感性の作家とこれまた体験論理力の作家の世代を超えたやりとり、謙虚にお互いを認め合っての知的刺激に満ちた対談は、簡単に読めるが、その知的胆力視野の深さ広さは、両者とも遠く日本列島を離れた地点から、世界の行く末を見据えている。

親子ほど年齢が離れているが、博覧強記の55歳の佐藤さんに語り掛ける82歳の五木さんも時に青年に還る若々しさ、そして頼もしく慈愛に満ちた言葉をあとがきでお書きになっている。

佐藤優さんも対談のはじめ、先輩の五木さんにお会いできて光栄ですと語り掛ける。すがすがしい対談集だ。そしてその内容は驚きに満ち、あらためて自分の無知蒙昧を知らされる。

佐藤氏は、今の日本人の責任世代の知的教養の、先進国のなかでのあまりの低さを、深刻に憂いておられる。政治家、官僚、経財界人、教育界含めたあらゆる大切な、国の根幹を担う分野の人材の欠如に。

この国の一人の民として、かすかにではあれ、本物のインテリと思える信頼できる方たちから素直に学びたい。




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