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2015-08-03

2015年、私の老春夏休みの旅が終わりました。

まるまる一週間の旅は十数年ぶり,63歳猛暑の中の記憶に残る旅となった。

出かける前の自分と、今この一文を書いている自分は,あきらかにかすかな変化が起こったと書けることが、やはり旅の重さなのだとあらためて感じる。

何度も書いているが、かすかに自分が変化し続ける間は、拙文ブログが書き続けられるのではないかとという、いわば生きている楽しみを、私は持続したく念っている。

出発日27日は、朝五時半西大寺発の電車、ずっと東海道線を乗継北上、車中で本を読んでは景色を眺め、疲れたら目を閉じて休むということを繰り返しながら大阪、名古屋、静岡、東京を通過、栃木県那須塩原駅に着いたのが、午後8時半。

若き日富良野で知り合い(彼は北大生でした)、彼の結婚式以来20年ぶりの再会、I氏が駅に迎えに来てくれていた。

彼の顔を見た瞬間、あっという間に若き日に還り、 まずやはり来てよかったとの思いが、こみ上げてきた。

独立して十数年、立派な獣医師となり一回り存在感が大きくなっていた。駅の近くに家があり、奥さんは大学生のお嬢さんのところに出かけられていてお留守とのことで、結局この日は彼の家に泊まることに。

彼の家で20年あっていなかったとは思えないくらい話が弾み、再会の祝杯時間はあっという間に就寝時間へ、続きは大槌の帰りにすることにしシャワーを浴びてすぐに眠りの世界に落ちた。

火曜日28日朝、5時47分の電車で黒磯を出発、I氏が駅まで車で送ってくれた。福島、仙台、一関、花巻と乗継、いよいよ釜石線に乗り換え釜石に夕方5時前に着いた。(二日間で25時間電車に揺られていたことになる)

そこからバスに乗り換え、30分、3年半ぶり大槌町に着いた。瓦礫は片付いていたが 町の人たちの暮らしはまだまだこれからだという印象、車とダンプが動いているばかりで、人の姿がまるで見えない。前回は真冬、今回は夏印象がまるで違った。

仮設のホテルを役場で探してもらいそこに直行した。翌日29日水曜日、仕事がお休みの、ともに瓦礫の撤去作業をしたK氏がわざわざ仕事先の山形から大槌まで(片道4時間)来てくださり、これまた3年半ぶりの再会。(大槌のことは、日を改めて 書きます)なんとも暖かいお人柄、東北は秋田のご出身、この方も一生お付き合いしたい方のおひとりです。

結局、この日はK氏とともに山形の天童市に彼の車で移動、泊まることに。天童市に着いたのが夕方5時過ぎ、K氏と温泉(NPOが経営する庶民行き付けの大衆浴場)に入り、二人で居酒屋で夕食。駅まで歩いて10分もかからないところにあるホテルに泊まったがやすくて広くて快適だった。

30日、木曜日朝7時27分の電車で天童から山形へ出て、そこから米沢へ。列車の待ち時間を利用し3時間ほど暑い中上杉神社などを歩き回る、落ち着いた良き街だった。だが、暑い夏にはやはり観光などはしない方が身のためだと再確認。東北も日中は本当に暑かった。

米沢から、福島、郡山、と乗継、再び5時前那須塩原駅へ。I氏が再び迎えに来てくださり、何とそのまま、塩原の300年間続いている古い温泉宿へ。その日は二人でそこへ泊るようにI氏が手配を済ませていた。

きれいな川を望みながらの森林浴露天風呂が最高でした。二人して裸でゆっくりと、旧交を温めることができた。20年ぶりであれ何であれ、お互いいい感じで再会のひと時を持てる相手なんて御仁はそうはあるものではない。

かなりハードな移動旅が続いてたので、この温泉宿の湯は63歳の体には、まさに骨身にしみました。寡黙なI氏の粋というしかない計らいと、(おもてなし) がひときわしみました。

二人しての宿での夕食、朝食とも申し分なく、語る話題も尽きることなく、たまさかの友との異次元の語らいは至福の旅時間となりました。結局3回私はこの湯につかり疲れをいやしました。またいつの日にか妻と共に訪れたく思いました。

 翌日31日金曜日宿の玄関で記念撮影のあと、獣医師としての氏の仕事を午前中見学させていただいた。最初の農家では初めて種付けする氏の慣れた無駄のない動きに、驚きました。3件の家畜を飼っている農家を訪ねましたが、彼の誠実な仕事ぶりを、皆さんが頼りにしているのが伝わってきました。最後の農家では、乳牛がこの暑さで亡くなっている現場を見ました。

お昼前、塩原の駅まで送ってもらい I氏とお別れしましたが、このような意外性のあるうれしい再会はそうあるものでははありません。縁を大切に生きるしかありません。

氏は私より 一回り若いのですが、世代を超えてお付き合いできる貴重な友人です。温泉旅を私にプレゼントしてくれました。いつの日にか彼が仕事をリタイアしたら、私も何かお祝をしたいと思いながら、那須塩原を後にしました。

一転せわしない東京へ。東京には午後4時半ごろ、いつもの三田の宿に落ち着き、一休みしシャワーを浴びたのち国会議事堂前の集会に参加しました。毎週金曜日の夜は、SEALDsの方たちが安全保障法案に異を唱える集会を継続しているので、私も個人として応援に出かけたのです。

集会が終わるまで3時間現場にいましたが、前回よりはるかに多くの人たちが参加していました。6月の前回は雨でしたが今回はブルームーンの満月が出ていて見守っていました。夜になってもうだる暑さが続き、熱気と人の波で、想像以上の盛り上がりを体で感じました。

いちいち名前は書きませんが、著名なマスコミにもよく出る経済学者とか、大学教授、政治家も個人レベルで参加しながら、時折マイクを持ち語り掛けていました。高校生主催の集会(日曜日代々木で行う)の告知も高校生男女が二人で直接語り掛け、次々に自分の言葉で意思表示するのには感動しました。

若い方々がいよいよ本格的に動き始めているという波のうねりが起きつつある予感がしました。ここは軽薄を絵にかいたおじさんとしては、何らかの形で応援しないと、情けなき思いです。

一人の著名な方が、夏の終わりまでに、この国会議事堂を10万人が取り囲むくらいの人が、法案に反対の意思表示をすれば 、廃案にできるかもしれないと、声をあげていました。

五十鈴川だよりを開いてくださる方にもお声掛けしたく思います。何らかの形で参加していただければと。集会を終え、ひとり溜池山王駅まで歩き、そこから麻布まででて、宿まで東京タワーを背に歩きました。

遅くなり一人外食もする気が起きず、宿でゆっくりとお湯につかり、疲れた足をもみ、果物とおにぎりと、ビールとお茶の簡単な夜食を済ませました。このデモの模様をメディアが伝えていないかチャンネルを回したのですが、TBSがわずかにちょっと取り上げていただけで他局は全くNHKはじめ取り上げていませんでした。

横になったものの、疲れているはずなのになぜか目がさえて、珍しくなかなか寝付けませんでした。

旅最後の日、三田の駅に荷物を預け朝の銀座でゆっくり朝食。銀座の裏通りの並木座(昔今はありませんがよく映画を見ました)あたりが私は大好きなのです。

8月1日。この日は映画の日でした。この日私は3本の映画を見ました。銀座のみゆき座でチャップリンの贈り物、私の親友が出ている自主製作映画を渋谷のアップリンクで、そして夜7時から文化村の、ㇽシネマで、伝説の写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画(監督はヴィムベンダースと、サルガドの息子さんのジュリア―のサルガドの二人)

セバスチャンサルガドのドキュメンタリー映画を旅の最後に見ることができた,出合ったこと、が今回の旅の白眉、最高の出来事となったことをとりあえず五十鈴川だよりに書いておきます。

映画を見終え、セバスチャン・サルガドの本を買い、夜行列車に乗るために田町で荷物をだし東京駅に向かいました。11時10分発まで時間があり夕食をしていなかったので、八重洲の地下のレストラン東京で、旅の終わりの祝杯を自分ひとりで上げました。

もちろん生ビールで、つまみは定番の餃子のみ、あのビールのおいしかったこと。約1時間盛りだくさんの今回の旅を反芻しながら 、生きて元気だからこその老春旅、家族はじめあらゆることにに感謝しました。

数十年ぶりの夜行列車は思ったよりも快適でした。すぐに眠りにおち気が付くと名古屋でした。顔を洗い少し体を動かし、コーヒーをのみ、さっそくサルガド氏の自伝を読み始めましたら、一気に引き込まれ西大寺に着くころには三分の二は読み終えていました。

このような写真家が現存していることは、私を大いに勇気づけ何やらこれから先の時間を有意味に生きてゆくためのエネルギーをサルガドさんご夫婦は、私に与え続けてくれるような存在になりそうです。

朝少し書いて、山陽カルチャーから帰って昼食を済ませ、少し昼寝をしたのちうだる暑さのなか、いささか朦朧としながら書きました。どのような旅であったのかが、ささやかにお伝えできればと思います。

8月2日、日曜日午後1時西大寺駅に着き旅は終わりました。炎天の中妻が迎えに来てくれました。


1 件のコメント:

  1. 東京には 行けませんが、岡山の市民パレードには参加しました。朝日新聞には 2、3行しか書かれていなかったのですが。

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