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2015-08-30

【デモができる象徴的空間】の必要性を説く、木村幹氏の新聞記事に深く同意する。

昨日はデモに出かけるつもりだったのだが、9月の4日金曜日の夜、大阪は梅田での集会に行くことにした。

今日午後2時から、国会議事堂前では10万人規模の集会が、国会議事堂前では行われる予定だ。ゆきたかったが、これも致し方ない。ゆけずとも心は議事堂前に集結している人々とともにある。

新聞によると、若きSEALSの方たちのアクションに刺激された、海外に住む日本人たちの方々もオーバーシーズ(海の向こうデモ)なるアクションを起こしたという。

過激には程遠く、緩やかに柳に風と揺らぎながらも、ささやかにしっかりと根を張る アクションがしつこく展開され始めていることの中に、限りなく自由に身を置きたい、と初老の私も考える。

ネットでの呼びかけに、各々勝手に一人一人がアクションを起こす。そして責任を持って学び、考え節度をもって行動し意思を伝える。平和憲法あればこそである。

意外性のある多様な発想は、若い方々の特権であり、若い時にしかできないことがある、と小生は考える。

少々の社会的に許される範囲での無茶は、やれるときにやっておいた方がいいと私は思う。だが、あくまで責任は自分で負う。(のちのちあのときにやっていればなんてことは、大人の発言とは言えないし私は言いたくない)

オーバーではなく、体を張って何かを為せばきっと何かが、身体の奥深くからの返事が返ってくるものである。普段はボーっとしていても、いざというときには真剣にならなければ。

この夏、2回ほど国会議事堂前に 出かけたが、その経験はいい年齢の私の中にも、若々しいしばらく忘れていたかのような感覚を呼び覚ましてくれた。

ところで 2001年の同時多発テロ以降、私はもっとまじめに世界のことを知らないと、まずいという内なる反省が起き、それは緩やかに続いている。この15年間は、今もすごく時の流れを早く感じるが、反省のおかげで充実した生活が持続できている、ささやかな自覚がある。

さて、わずか1紙だが、新聞も読めるところから読み、定年退職後は時間も余裕ができたので、最近は書評以外にも、じっくりと読みたい記事なんかは切り抜いてから読み、これはという記事は(署名入りの)ノートに(娘たちがの使い古し、余白のあるノートも、もったいないので最近活用している)貼り付けている。

画面の文字は切り抜けないので、やはり私には3次元の新聞や本がいまはいい。でももっと歳をとって切り抜けなったら、文字を大きくできる電子書籍に移行するだろう、軽いし手軽に持ち運びできるから。

ところで、昨日の新聞に神戸大学の教授の木村幹氏が、家族と夏休み東京に行った際 、せっかくの機会なので、子供に日頃は見られないものを見せてやりたいと思って選んだのが、国会議事堂前で繰り広げられていた安保法制に反対するデモだった、とある。

将来、お子さんに政治について考えられる大人になってほしい、その機会として重要だとの親の思いである。こういう柔軟な思考の持ち主の親を持てた子供は幸せだと思う。

お子さんは、父親との国会議事堂前でのデモの記憶を、深く心に刻まれたにちがいない。私には男の子がいないから、うらやましい。

もし私に孫ができ たら、ちょっと記憶に残る体験を孫にはさせてやりたいと思わずにはいられない。話がそれた、木村さんはその記事の最後に、市民がデモを安心してできる【象徴的な空間としての広場】が必要だと述べておられる。

大賛成である。デモ隊の集結する場所は国会議事堂前の狭い歩道の中に制限されるので、人々が 道からあふれてしまい、ゆったりと歩くことさえかなわないのだ。

古代ギリシャには、アゴラと呼ばれる議論の空間 があり、民主主義はそこで育まれていったとある。

成熟した民主主義国家に、大規模な市民が安心して意志表示できるデモのための、(新国立競技場並みの広さがあればいい)大都市圏に数万人が集まれる公園があれば、もっと人々は安心して駆けつけることが可能だと私も思う。

市民が自由に議論、デモンストレーションできる場所と空間が地方にも必要だと 木村教授は述べている。自治体と市民団体協働での連携が必要だと。







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