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2015-08-25

今週は、国会議事堂前ではなく関西圏のデモに行くことにしました。

5月、長女の日本での結婚披露宴を終えてから、6月、7月、そして8月と、何か自分を叱咤激励(いまもそうだが)しているかのように、歳も顧みずあちらこちらと動き回った感のある、今年の夏である。(まだ終わってはいないが)

今日は台風のため竹韻庵に行くこともなく、ゆったりと文章が書き進められる。静と動を繰り返しながら日々を新たに生きられる現在を、つましく感謝する。

何事もすべてはバランス、よく働き体全体を動かしよく休み考える。私はプロではないので、つたない文章でも自分で自分の意識を折紡ぐよう集中しないと、書く気が起きない。

さて、週末国会議事堂前に出かけたかったのだが、妻と娘の忠告を受け入れゆくことはよすことにした。心も含め万全の体調でないと長旅でのデモンストレーションは、あとあとにこたえる。先は長いのだ。

だからといって、 デモにゆかないわけではない。京都か、神戸か大阪いずれかのデモに日帰りで参加するつもりである。

在来線のなかで、往復本を読みながら(違憲を唱えた憲法学者の)ちょっと遠くのデモに出かける、なんてのも私なりの遊び心の横溢である。遊び心でデモなんていうと真面目な人たちから不謹慎のそしりを受けそうだが、私自身は大まじめだ。

私も含めて、日本人には個人主義が根付いておらず、堂々と意思表示せず。人の顔色を窺う体質がいまだ、はなはだ強いが、デモの参加者の意識が(物見遊山でまったく構わないと思う)徐々にゆったりと変容しているかのように、私は感じている。

これまではデモに参加しなかったかのような、きわめて普通の私も含めたおじさん、主婦の方とかが、お嬢さんと参加していたり、老若男女が組織とかではなく、自由意思で参加されているのを、現場で私は感じる。

一気には何事も変わらないが、ゆるやかに緩やかに、何かが変わり始めているのを感じる。私自身は群れるのが大の苦手なのだが、小さき生き物、社会的弱者は連帯して、大きな権力に意思表示しないと、長いものまかれてしまう。希望は自分の中にこそ見つけるものだ。

責任を持って、自分の頭で考え、自分の足でもって行動し意思表示できるなんて幸せなことではないか。異なる意見も聞き、なるほどと思えば反省する勇気を持ち、絶えず自分自身デモの渦中でも冷静さを失わないように心かける。

なぜなら、絶対的な善はなく、人間という動物は絶対的に間違うという生き物であるという認識の側に私は立つ。自分を過信せずこれでいいのかいけないのか疑いつつ、行動するしかない。

考え、行動し、反省する中でしか民主主義は(腐敗する)成熟しないという側に、今私は立つ。賛成の側の人たちの意見にも耳を閉じることはしたくない。状況が変わればまた考えも変わるかもしれないが、とにかく今回拙速に法案を決めることに関してはノーである。無関心がもっともいけない。

この間の国会議事堂前のデモで、集会が終わり帰るときに、どこかの団体が参加者に冷たい水を紙コップでふるまっていた。成熟した市民たちが出現している。私もいただいたが、夏の夜のうだる暑さの中、その一杯の水のおいしさは格別だった。暗闇の中での思いやりと無意識の連帯。

私が辺野古に出かけたり、国会議事堂前に出かけたりするのにはほとんど理由はない。個人で現場にゆくことでしか見えてこない感じられない、見知らぬ他者に教えられることがあるのだ。大声あげて叫ぶのではなく、あえて沈黙の意思表示を私は個人でしているだけである。

群れてはいるが、やわな意識で群れているのではないのだ。おのおの汗を流しエネルギーを使ってあらゆるところから集結して、与えられた大切というしかない表現の自由を示しているだけなのである。

いろんな考えの方々が、同じ時間同じ場所で意思表示する。 家の中で、安全な場所で、沈黙していたのでは何も変わらない。あくまでも冷静に、しかし熱く表現しないと、どこか悔いが残る。

安倍総理は、これからも平和国家として国際的に貢献してゆくとおっしゃるが、この道しかないという短絡的なこれまでの軍事にのみ頼る抑止力ではなく、あるいはもっと世界から尊敬され、理解される方法もあるのではないかという、画期的な多元的な知性あふるる法案が、廃案にしたのち出てくるような、国会審議であってほしいと願うのは、単なる絵空事なのであろうか。

国会議事堂前に集結し声を上げた人々のドキュメンタリー映画を、社会学者の小熊英二(字が間違っていたらごめんなさい) さんが撮られたという、ぜひ見てみたい。


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