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2015-07-02

6月27日・藤原新也さんのWM・キャットウォークの会員のオフ会に5年目にして初めて参加できた記念すべき夜。

さて、翌6月27日のことを書いておきたい。大井町のホテルで目覚めた私は、チェックアウトまでの時間をホテルでのんびり過ごしてから、娘が住んでいる稲城に向かった。怜君は私が上京する前から来週いっぱい出張で不在だった。

土曜日なので山手線も京王線もすいていた。木曜日は娘のところにとまり、今夜も泊まるので荷物のほとんどは娘のところに置いたまま、私は金曜日の集会に参加した。

ところで、金曜日の集会に参加するまでの時間何をしていたかというと、午前中45年ぶり、中学校の同級生のNさんに、彼女の家(稲城から近い高幡不動)で、私は再会し(このことはまた後日書きたい)たあと、午後2時半から、ジャン・ユンカーマン監督の【沖縄うりずんの雨】というフィルムを神田神保町の岩波ホールで見た。日本人なら必見のフィルム、またしても無知を知らされた。

話を、土曜日に戻す。11時に娘のところに戻った私は、娘が作ってくれたブランチを済ませ少しのんびりとさせてもらった後、娘もシールズの集会に参加する予定だったが、急な用事で私だけでの参加となり、午後1時過ぎともに社宅を出た。

(ところで、彼女の会社の社宅は駅から3分のところにあり、高台の最上階、6階に 住んでいて東京の夜景が一望でき、窓を開けると涼しい風が入りまったくクーラーが必要なかった)

娘とは調布で別れ、藤原新也さんのキャットウォーク、緊急オフ会の集合時間の16時には早かったが、私は渋谷に向かった、明大前で井の頭に乗り換えて。

明大前の隣の駅、東松原には私が18歳で上京し、初めて演劇を学んだ貝谷芸術学院があり3年間通った思い出の場所。いまだ胸がかすかにうずく。

思い返すと、やはりこの青春真っ盛り3年間の、思い出せる記憶の中の出来事こそが、今となっては宝石の記憶なのだと感じ入る。恥かき人生のすべては、無知から始まったのだ。

今も無知蒙昧だが、無知だったからこそ、井の中の蛙だったからこそ、恥も外聞もなく、青春特有の無謀なジャンプが可能だったのだと思える。いまだに青春の残り火がくすぶるが、ばかは死ななきゃ治らない、雀百まで踊り忘れずというところ、自分からは逃れられない。

集合場所の渋谷は、一見私が東京に住んでいたころと相も変らぬ右往左往の人の波。だが確実に私は年を重ねた。若い頃、渋谷のデュエットというジャズ喫茶で、演劇に挫折し行きどころのない自分を持て余したあのころを、今でも思い出す渋谷の街。

集合時間まで本を読んで過ごすために、喫茶店を探して青山一丁目のほうに歩き、イメージフォーラムという選りすぐりのめったに見ることのできないフィルムを上映してくれる映画館のそばのカフェで私は静かなひと時を過ごし て、集合場所に向かった。

午後四時、すでにキャットウォークのバッジを胸に付けた、オフ会に参加する面々がビックカメラの前に集結していた。ほどなく藤原新也さんと、ジャーナリストであり国会議員でもある有田芳生さん(キャットウォークの会員である)が連れだって来られた。

古希を迎えても藤原さんの情熱は 衰えない、外見はそれなりにお年を召しているのだが、精神の若々しさ、その行動力には恐れ入る。このような兄貴的(一方的に私はそう思っている)感覚の持てる、尊敬できる方とわが生涯で面識を持てたことは幸せである。

オフ会には100人近い面々が集結、新也さんからこの後シールズの集会に各々自由に 参加し再び6時半に集合しようと伝えられ、私はその場で出会い言葉を交わしたK君とハチ公前のシールズの集会場所に移動した。

それから約2時間、土曜日の夕刻のどこからこんなに人が湧いてくるのかわからないハチ公前広場で、自分の言葉で語る男女学生たちのアピールにまずは耳を傾けた。

心の片隅で、この現場にいる自分がいわく言い難い、不思議な感覚につつまれながら。

学生たちの呼びかけで、社民党の女性議員(名前は失念)、民主党の男性議員(名前は失念)、菅直人氏、生活の党の山本太郎氏、維新の党の初鹿明博 氏、共産党の志位和夫氏らが次々と車上の演壇でマイクを持ち、安保法制を廃案にすべく、党派を超えて、道行く無関心層に声をからして、アピールした。

(初鹿氏がこの日の学生たちの呼びかけ街宣活動に、共産党の志位書記局長らと共に参加したことで、維新の党は初鹿氏の処分を検討しているという、党派を超えた個人レベルの参加に対して、なんともはや心に大人の余裕のない幹部たちの対応には二の句が継げない)

前日とは違った女子学生たちが、最初二人ほど思いのたけを語るのを、私は雑踏の中で静かに耳を傾けたが、きわめて普通の常識的感覚の肉声で語るのをすぐそばで聞いて、必死で自分で考え伝えようとする姿勢に打たれた。

話しぶりには、人間性が丸ごとあらわになる。渋谷のこんなところに立って話さずにはいられない、自分が信じられないと語るその女子学生は、しかし他人ごとではない、無関心ではいられない、と、まるで他人事みたいに思える、道行く無関心層に、熱く訴え語り掛ける。

その声をからしての個人的な思いは、そのあまりの普通さゆえに私にも届く。シールズの学生たちは、やはり何か新しいやり方、方法を、悩みながら模索しつつ歩んでいるのだということが、直に現場に駆け付けてみて個人的に伝わった。

相対的に女性の方が男子学生より、言葉が地に足がついているように私は感じた。きっとこれからは、母性的な女性の時代がやってくるのではないか、そうなってほしいというささやかな私の願望も入っているが、そのように感じた。

一人の優れた女子学生は、米原万理さん(姿形も)をほうふつとさせ、きっとこれから先活躍しそうな大器を予感させた。名前は知らないがお顔はしっかりと頭の中に刻み込めた。その場で直に体感するということは、だから大事なのだ。

ともあれ、彼らのホームページ を開いて、ぜひシールズの声を活動を、間接的ではあれまずは聞いてほしい、と私は思う。

さて、6時半に再集合し、新也さんの大久保に在るアトリエ(書や絵を描くための)に40名以上のキャットウォークの会員が移動して、8時近くからのオフ会なるものに初めて参加させていただいた。隣には有田芳生氏。落ち着いたユーモアのある愉しい方だった。

新也さんから松煙墨という、もうなかなかに手に入らない墨の匂いを会員全員嗅がしさていただいたり、母情という書と一輪の蓮の花の写真がおさめられた作品(素晴らしかった)を鑑賞したりしながら、新也さんのお話に耳を傾けたのち、大久保駅の近くのタイレストランにほぼ全員が移動し、9時半から遅めの夕食交流オフ会の宴となった。

新也さんが、店の人に掛け合って最初の乾杯のビールやノンアルコールの飲み物も含め2500円で のタイ料理のコースとなった。とにかく新也さんは無所属の弱者に対して限りなく優しい、特にキャットウォークの会員には。

短い時間ではあったが、近くに座った方々とすがすがしく愉しい語らいの時間が持て、何人かの方とは名刺の交換もでき、風邪の功名で 思わぬ時間がわが体を吹き抜け、参加してよかったと、一人しみいった。

風でダウンし考えなかったら、まだ畑にいたかもしれないと思うと、まさに、塞翁が馬の感あり。一寸先の人生は今更ながら予断を許さない。

ほとんど新也さんとはお話はできなかったが(しなかったが)隣に座ることができ私は幸せだった。20代の中ごろ初めて読んだインド放浪からの読者としては、(ほとんどの著作を持っているし、羅針盤のようにしている)胸に迫る何かがあるのだ。

34歳、富良野塾を卒塾し、まだ妻と結婚する前、初めて 新也さんを当時房総にあったアトリエに突然バイクで訪ねた時のことは今も記憶に鮮明に残っている。いつか、落ち着いてエッセイふうに書くつもりだ。

愉しい時はすぐにたち、有田芳生さんには名刺もいただき面識を得た。京王線の終電に間に合うようにお店を出る前、新也さんにあらためてお礼のご挨拶をすると、思いもかけず握手をしてくださった。

これからは可能な限り、オフ会には参加して会員同士の交流を個人的に深めてゆきたいとあらためておもった。ほとんどの方とは言葉を交わせなかったが、 私にとってはこれからキャットウォークの会員との交流が始まる記念すべきオフ会となった。

午前一時過ぎ、娘のインターフォンを押すとまだ起きていてすぐにあけてくれた。


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