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2015-07-20

岡さん、梅雨が明けましたね。いつもコメントありがとう。

梅雨が明けたそうだが、何かどんより感が漂う今年の夏、蝉の鳴き声があまりにも少なく感じるのは私だけだろうか。私の体にしみいってくる、短き命の多重音が。

少年期、あのあまりにもかしましいセミの鳴き声を耳にしながら、のほほんと育った私なので、何か拍子抜けしたように、どうしても感じてしまう。カエルの鳴き声とセミの鳴き声を聴いて私は育った。

それが聞こえてこない世界では私はきっと生きてゆけない。(スマホがなくても生きてゆけるが)

男の更年期というものがあるのかどうかはともかく、あのころ、つまりは一番感受性が豊かな育ち盛りだった世界に対する回帰願望のようなものが、歳とともにますます強くなってきているような気がしてならない。

可能な限り正気な彷徨える老人に私はなりたい。よちよち歩き出してから、五十鈴川で泳ぎを覚えたころ、小学4年生くらい(家族が全員で暮らしていた、いられた)までが、私の幼少年時代の黄金期だったのだと、つくずく思い知る。そういう幼少年期を持てた幸運を、いま返す返すも 反芻する。

この間のお墓参りの帰省もそうだが、鮭が故郷の川を目指すような感覚が、私の中で年々老いに逆行するような感じで強まってくるのは、何故か?自分でもわからない。周りの人はそうではないみたいなので、私がやはり特殊なのだろうか。

息も絶え絶えであれ、故郷の川を目指す初老の私と、鮭の姿がダブってしまうが、反面失われし時を求めてさまよいたい、恍惚人的情熱は、何やら激しさを増してきているかのような塩梅。

話は変わる。一方不条理としか思えないような出来事やニュースに関しては、怒る新老人感覚、行動力好奇心は健在の私である。ありがたいというほかはない。体の衰えは人並みだがそれを上回る好奇心は以前と変わらない。

退職後考えたり本を読む自由な時間が増えたせいか 、より真面目に物事を深く考える楽しみも増え始めたように思う。自分でいうのもなんですが私はあらゆる点で小器晩成なのだと思える。気づくのが遅いのである。

時は金なりという言葉は真実である。良き本に巡り合えた時に、ゆったりと読む時間と空間があるということは、まさに至福だ。活字が体に流れ込んできて体が生き返る。

本を読むために、声を出すために、旅をするために、家族のために、やりたいことのために、今しばらく体を大事にしなければと、自分に言い聞かせる。

このところ、夕方や早朝、必ず運動公園(大雨以外)で声を出したり体を動かす癖をつけようと継続しているが、毎回同じところを読んでも新鮮に読める。それができる間は、大丈夫と自分を励ます。

かけがえのない個としての、今の自分の感覚や湧いてくる感情に正直に生きてゆきたいのだ。農の時間を断念したおかげで真面目に本を読む時間が増えている。この自由時間のかけがえのない有難さ。

読む本の種類が何とはなしに変わってきた。以前だったら手を出さなかった難解な本も読み始めた。若い頃読めなかった本がすいすい読める。活字が私に働きかけてくるのだ。書棚に在る本を読むだけで、私の人生は終わるかもしれない。本は想像力がはばたく宇宙そのものだ。

いま、読んでいるのは佐藤優(まさる)著【私のマルクス】、以前だったら署名を見ただけで敬遠したかもしれない。全14章の7章までを今読み終えたところ。だんだん面白くなる、書いてある経済学の書物や、キリスト教神学書は、小生まったく読んだことがない。

が、面白い、何故か。面白く感じる自分がいるからである。それはおそらく私が佐藤さんのファンだからかもしれない、生き方が。知らない難しい語彙や言葉(遅まきながら先生から学び書く)もあえて、ゆっくり読む。タイトルからは想像できない、半自伝的な本なので、読み進むにつれてファンであれば引き込まれてゆく。

自分の文体、言葉で、行きつ戻りつ真摯に語ってゆくにつれての、その展開の面白さには思わず軟派の私も引き込まれる。その器の早熟さと天与の才能と努力で身に着けた該博さ、博覧強記ぶりには、驚嘆を禁じ得ない。

あとがきを、中村うさぎ、さんが書いているが、この人脈の幅の広さと、独自の視点と獄につながれても揺るがない(キリスト教徒としての)覚悟の深さ、強靭さには、静かに私は首をたれ、打たれる。

決して遅くはない、無知は恥ずかしいことではない。学ばないことがちょっと私は、恥ずかしい。

ところで、7月末は、6日間夏休み、3年ぶり東北の旅、大槌町を訪ねてみようかと今考えている、在来線ののんびり旅で。その時には普段は読めそうもない、佐藤さんおすすめの本を何冊かバッグに詰め込むつもりだ。


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