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2015-07-15

人類の敵とは?予定変更朝ブログ。

昨日今日とNHKで国会審議が放映されないで、今日自民党は審議が十分に尽くされたとして、強行採決するという。(新聞のテレビ欄を朝一に見た)

肝心な時に放映しないNHKに対しては、まったく私は失望している。五十鈴川だよりは、まったくの個人、庶民がつづる折々 勝手気ままブログだが、失望、落胆の度を越えている。こういうときに放映してくれないと、受信料を払いたくなくなってしまう。

昨日の続きを書こうかと思っていたのだが、急に予定変更ブログとなったしだい。

決まりきったほとんど(私にはそう思えてならない)はどうでもいいような番組(すべてがそうではないのですよ、いい番組もあります)が日々垂れ流され、その毒にも薬にもならぬ番組を何十年間にわたって見続けた人々が思考能力を失ってしまうとしたら、なにおかいわんや。

自分のことはさておいて、この国の人々が認知症になってゆくパーセンテージが年々増してゆくのは、TVやあまたの映像づけに脳が浸され続けているからではないか?

もちろんいろんな要素が複雑に絡まっているからなのだとは思うのだが、そのなかにTVの影響がかなりあるのでは、との疑いを私は持つ。日本人テレビ教。

編集された映像は、ほとんどフィクションである、との認識を私は持つ。だからうかつには 私は信用しない。現場に行くなり自分で考える。ところで自民党に投票するかなりの方々が高齢者である。

20代、30代の投票率は情けないほどに低い。(英国は70パーセント、学生の国会議員もいる)あまりの低投票率の中で多数を勝ち取り、国民の8割近くが法案に反対、未だよくわからないと言い、無理解のままであるのに(私もそうである)強行採決をするというのは、どう考えてもいかがなものかと、ヒダカの歯ぎしりである。

でも悲しいかな民主主義、多数決原理である。民主主義ってなんだ?と若者ならずとも、初老のおじさんだって 叫びたくなるではないか。

東京他、都市部では大きな集会や、法案に反対のデモがにわかに立ち上がってきている普段はデモに行かない私のような無所属、無党派が、ともかく動くことによって刺激を直接受け自分の頭と体で考えようという人々が増え始めている。ここに私はかすかな希望を持つ。

自由とは、国家とは、憲法とは、国を守るとは、正義とは、戦争とは、肝心かなめの国の行く末の大事について、賛成反対、どちらにもせよ、自分の頭できちんと考えられる視野の広い民度の高い人々が増えないと、と思う。

国民の未来、幸福、を託す、冷静に議論できる大人の国会議員(与野党含め)が少ないこの国の行く末が、私は不安だ。

国民が選ぶ議員の質を上げるには、当たり前だが選ぶ側の質も上がらないことには(自分のことはさておき)話にならない。

無関心は、あらゆる創造的な行為や行動の芽を摘んでしまうと思える。どこに視点を置いて生きるか、を考えてゆくかによって世界はいかようにも変容してゆくし、いわば世界は自分が変わることによってしか変えられないのである。

身体が元気で思考できる方々は、まずは自分に関心をもつ事から始める。知る勇気を持つ。おそらく自分が変われば世界も変わる。

大きな見えない権力に自由に考える可能性を奪われるような生き苦しい、風通しの悪い社会の到来だけは、五十鈴川だよりはご免である。

歴史は繰り返す、などと自分が戦争にもゆかず、面と向かって戦ったこともなく、苦しい経験をしたこともなく安全なところにいて、訳知り顔に話すような 手合いが、私は最も苦手である、特に同世代の。

これまでがそうであったならば、だからこれから先は変えられるという可能性を探るのが大人、それをしないで、未来に対してなにをするのかと私は考えてしまう。特に与野党の政治家は。

第一次大戦から100年、敗戦から70年、この間の現代史は?学ばず繰り返す輩こそ人類の敵ではないか。命と平和について、人間の尊厳について、テレビに血を吸われ、思考脳内毛細血力が弱まる(私のことです)。

見えない大きな力に命令され苦しみ抜いて倒れていった、今も過酷な状況を生きておられる、無数の国籍を超えた、人為的紛争の犠牲者たちに対して申し訳できない、との側に私は立つ。




1 件のコメント:

  1. 25日 岡山でも「戦争法案に反対する市民集会とパレード」が行われる予定です。夜勤明けですが がんばって行こうかなと思っております。

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