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2015-07-04

45年ぶり、中学校の同級生S子さんと奇蹟の再会を果たす。

先週木曜日からの3泊4日の上京は、思いもかけぬ中学校の同級生S子さんとの45年ぶりの再会という、予期しない出来事が私を待ち受けていた。

私は高校卒業するまで父親の仕事の都合で、3回(小学校に入る前も含めると4回)転校している。

一番最初は6年生の時で、宮崎は日之影の近く、北方というところの槇峰銅山があった美々地小学校、わずか1年間しかいなかったがそこでの体験は鮮烈な記憶とともに私にとってまことに大きい。

(胸の中にそっとしまっておきたいという思いと、わずかでも書いてみたいとう 思いがせめぎ合う)

その槇峰銅山は、私が中学高の一年生で再び転向した都城の近くの四家中学校二年生の時に閉山した。(美々地小学校は生徒数が激減したものの、わずかに地元の子供が通い存続していたが数年前廃校となった)

その後、夏休みとかに実家に帰省した(多分高校生になっていたかとおもう)おりに訪ねた閉山後の、、そのあまりに変わり果てた無残な光景から私が受けた衝撃は、言葉には尽くせないほどのものだ。

かって多くの人たちが暮らしていた山間の小さな谷間の、おそらく千数百人が暮らしていたであろう平和で穏やかな銅山の町は忽然と消え、かって多数の人が住み、私も住んだ炭住と呼ばれる長屋は、無人となり、荒れるに任せ放置されていた。

私は桜ヶ丘という地名のところの長屋に住んでいたが、初めて転校生として美々地に足を踏み入れた時に見た、谷間一面を彩るその桜の美しさには圧倒された。

ささやかではあれ、かって人々の穏やかな暮らしが、忽然と姿を消してしまうという現実、多感な思春期に私が受けた、あの一年間は夢だったのかとさえ思わずにはいられないほどに、ショックだった。

この年になると、あの僅か一年での生活で記憶に残る、全国に散った同級生に会いたいとの望郷のような思いは、消えることはない。

だからなのだと私は思う。福島でもそうだが故郷を忽然と無くすということの、大人もさることながら、子供たちに与える心理的なトラウマは、想像だに絶する、と。

シリア、イラク、アフガニスタン、スーダン、ソマリア 、ウクライナ、チェチェン、エチオピア、ボスニア、チベット、パレスチナ、ほか書くのが嫌になるほどの各紛争地域で子供たちが置かれている悲惨な状況には、世界の責任ある良識のある大人は見ぬふりはできないと思う。

罪もなく銃弾を受け、巻き込まれけがをしたり、難民テント暮らしを強いられたりする不条理に対して 、私自身痛く反省しながら、ささやかに寄り添える人間性をなくしたくはない。

話を戻す。四家中学校という全校生徒150人の一学年二クラスの小さな学校に転校した私は3年生の時、同じクラスになったNさんという女子学生と言葉を交わすことがあった。

彼女は今でいう集団就職のような形で、東京の京王帝都電鉄に就職 、私は進学したが高校生活になじめず、夏休みヒッチハイクで上京したりした際、彼女に会った記憶があるが、以来音信が途絶ていたのだ。

簡単に記すが、夢が原でのイベントに来てくれた水島に住む同級生のM氏が彼女の電話番号を教えてくれたのが縁の復活。上京するたびに電話をしていたのだが3回目にしてようやく縁が再びつながったのだ。

さて、午前9時半すぎ高幡不動の駅で、45年ぶりに再会した私たちはすぐにお互いがわかった。向こうはどう思ったかは知らないが、私の方は彼女のあまりの優雅な変身ぶりに驚くとともに、逢いに来て本当に良かったとの、思いが瞬時にこみ上げてきた。

彼女の家は駅から歩いて2分のところにあり、今現在50人近いお弟子さんを抱える日本舞踊のお師匠さん(家元となっていた)になり、自宅には稽古場もあり、午後からはお稽古があるという忙しさの中、私に会ってくれたのだ 。

お庭を拝見しただけで、現在の生活の充実ぶりが分かった。最初の1時間は二人だけで、後半はご主人も参加しての再会時間は、悦楽時間というほかなかった。お互い子供を育て上げ、現在も打ち込める確たる世界を確立しているS子さんは、まぶしいほどにいきいきはつらつ、現在を生きていた。

こういう再会は本当に神のおぼしめしというほかはない。ご主人は現在バードカーヴィング(私はそのような世界のことすら知らなかった)の造形作家で、(退職後に始められたとのこと)作品を見せていただいた(家に工房がある)が、まるで鷹が生きているかと見まごうほどの出来栄えだった。

あっという間に息を堰切った語らいの時間がたち、またの再会を確約してお別れしたが、娘の働く会社からも近いし 、これからは新たな関係性が築いてゆけることを確信し、約束した。

また彼女は着付けの先生もしているので、娘に教えてほしいと頼むと、分かった連れてきなさいと言ってくれた。娘にそのことも含め、再会の一部始終を話すと、習いたいとのことだった。

次回の上京では、怜君共々娘たちを是非会わせたいと思わずにはいられないほどに、わが同級生は立派になられていて、月並みだが人生をきちんと生きておられるお姿に打たれ、ただただうれしかった。

己の心の持ち方次第で、人の道はいかようにも生きられるお手本を彼女の生き方に見た。京王帝都電鉄に就職し、高幡不動に根を張って、お二人の子供を育て上げ、ご主人とともにさわやかに暮らすS子さんとの再会のひと時は、私にはまさに夢のような奇蹟のひと時となった。




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