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2015-07-05

平和の有難さを刻むためにも五十鈴川だよりを書きながら学びたいものです。

夢が原退職も何かと忙しく日々を過ごしていたが、畑を断念したことによって、にわかに降ってわいたように思考する時間が増えたことで、ブログを限りなく落ち着いて書けることは、私にとっては有難く幸せなことである。

生来の単細胞、感性型人間なので、物事を深く凝視したり、じっと沈思黙考したりすることが 限りなく私は不得手である。それは実は今でもそうであるという、認識が私にはある。

だからなのだと思う、書くという脳の回路は、いやでも内的に落ち着いて自分と向かい合うということを余儀なくされるので、一つのまあ日々の、いかめしいが修行のようなものに、私にとってはなってきた気がしている。

ささやかに、(囲炉裏通信も入れると、書き始めて 7年目に入っている)書き続けていて思うことは、(私の場合のことだが)終わりなく人間は考える葦であり、揺らぎたゆたう存在であるということである。

そのことを最近は、それでいいのだと漸く自己肯定し始めている。何十年もかかって漸くにして、ほんわかとそれなりに生きてきた自分を、冷静に眺められるようになってきた。

もし自分が事故や病気にならず父や母が生きていた年齢まで生きるとしたら、とにもかくにも日々のよしなしごとを、つづりたいものだという生きがいを見つけたということである。

書き始めたころは、こんなに書き続けられるなんて思いもしなかったのだから、まさに瓢箪から駒といった、意外性の果実というしかない五十鈴川だよりなのである。

案ずるより恥を恐れず今を生きる。オーバーだが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、といった心境に近い。もっと書けば、老いとともにもっと自由自在に、思考を解き放ちたいといったふうな心持なのである。限りなく瘋癲老人に憧れる。

先の沖縄への旅や、続いての上京旅などで、足の向くまま気の向くまま、体の内から湧いてくる今現在の自分を限りなく冷静に解き放てる自分を感じている。自分で自分を面白がる。

そのことを臆面もなく、いけしゃあしゃあと書けるのも、老人性鉄面皮に自分がなりつつあるということかもしれない。

ところでいきなりだが、敗戦後現憲法の成立に関する本を このところ読んでいるのだが、自分の立ち位置をしばし離れ、冷静にいろんなことを知り学ばないといけないと、あらためて五十鈴川だよりは反省しつつ、庶民の一人として平和主義、民主主義について、思考停止にならないように、流れながら考える。




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