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2015-03-28

見ず知らずの方から、シェイクスピア遊声塾の稽古を見学したいという連絡がありました

ケータイがないにもかかわらず、天神山文化プラザに電話をしてまで、私の遊声塾に関心を持たれた方とおとといの夕方お会いしました。

私が誘った方ではなく、まったく見ず知らずの方で、インターネットで私の塾生募集のチラシを見て関心を持たれた初めての方でした。すぐ連絡をとりました。

待ち望んでいた若い女性(シェイクスピアには若い方もたくさん登場しますから) でしたので、私も幸い時間があったので、その方に会うことにしたのです。

やく1時間ほどお話をしたのですが、とてもいい感じの方で4月1日のレッスンに見学に来てくださることになりました。

3月から急に3人も塾生が増え、春が来たと喜んでいる私ですが、入塾するしないはともかくチラシを妻が作ってくれたおかげでこうやって反応があるということは、やはりシェイクスピアの力なのだということであると 私は思っています。

ヤンコットの名著、【シェイクスピアは我らの同時代人】という本があります。今も手元にあります。やはり、何かを探しているかたは、いるのです。

何らかの形で、いろんな方法で、私自身も若いころから自分自身が素直になれる居場所を探してきたように思うのですが、可能なら鉄は熱いうちに打てということだと思います。

ともあれ、やはり遊声塾を立ち上げてもうすぐ丸二年、私自身が30数年ぶりに声を出していますが、ようやくかすかに昔の自分の感覚が蘇ってきて、自信を取り戻すにしたがって塾生も増えてきているのではないかという気がします。

人と人がシェイクスピアを介在して本質的に 出会うことの贅沢というしかない時間を、塾の中で裸になって声をだし共通感覚を育む、体感する。

私自身が現代という世界の中で、なかなかに素になれない自分のもどかしさを抱え、そういう自分をいまだ何とかしたいとおもう、遊び心が消えないのです。

シェイクスピアの上品な高貴な世界から下品な世界まで、絢爛豪華というしかない魔術的な言葉世界、ひ弱な私の体に余るのは重々承知していながらも、 その言葉を発してみたいという誘惑がいまだやまないのです。

やまないというよりも、晩年になって声が細くなるにしたがって、時間ができた今こそ悔いなく出し切っておきたいという思いの方が大きいのです。若いころのようにはいかないながらも、出せる、出る今現在の声を出し切るという感覚。

 自分自身を別の世界へと導いてくれる幻惑的言葉世界、つくずく人間は言葉を操りながら、その関係性の中を泳いで生きてゆかなければならない器であるとの認識は深まってゆきます。

だからこそ人は日々声を(言語を)発しながら 生きてゆく。その言葉に敏感な肉体でありたいとの思いが私にはありまして、その先生が私にとってはたまたま、翻訳された日本語のシェイクスピアであったということだと思います。




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