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2015-03-23

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

昨日日曜日、午後1時から夕方5時まで、天神山で遊声塾のレッスンをした。

私も含めて5人でのレッスン 、発表会が迫っていることもあり、わずかなお休みをとりながら、1幕から読み始め、なんとか4幕で読み進むことができた。

我ながらいささかの無謀な試みをやっているという認識をもって発表会に挑んでいる。言葉を変えていえば、無謀だからこそやる意味があるとさえ思うから、あえて私はやりたいのだとおもう。

安全なところにいての、お遊び的趣味同好会(それはそれで結構) のような、発表会を私はしたくはない。遊声塾を立ち上げた意味もない。

身体が冒険できる間は、ささやかな冒険心を持続しながら、偶然出会った仲間とともにあえて挑戦する心意気のある塾生とともに、シェイクスピアのセリフに、オーバーに言えば生きた声を吹き込みたいのである。

そういう波動に共鳴して (共振)下さるような方が方々がいるということは(月謝まで払って)私にはある種の驚きだが、私も随分と若いころから、限りあるお小遣いの中から月謝を払って学んできた。

いま、つくづく思うのだが、狂言の稽古の月謝であれ、文学座やシェイクスピアシアターの養成所時代の月謝であれ、(他にもいろいろ)自分の体に投資してきてよかったと思う。

人様からお金をいただいて、何かをなすということは、まだ2年にも満たない初めての経験だが、生徒さんがいてくださるという事実が、私の中にいうに言われぬ責任感を育む。

生半可なレッスンはできない。 これまで学んできた、身に付いたエキスのようなもの、私の中に眠っている言葉、それがレッスン中に吹き出てくるのを私は時折感じている。そこが支えだ

この感覚は遊声塾を立ち上げなかったら、おそらく永久に私の中に眠り続けて人生を終えてしまったかもしれないと思うと、塾を立ち上げてもうすぐまる2年 、つくづく今よかったと思える。

塾生の個性と私の個性がぶつかって何かが生まれてくる。それは意識を研ぎ澄まし、集中し、全身で声を出さないとなかなかに立ち現れては来ないのである。

普段の便利な暮らしの中で、自分の体と出あわなくなり、何十年も全身で声を出さなくなった私も含めた 貧相な肉体の現代人が、いきなりシェイクスピアのセリフを声に出すということの無謀さ、でもそこをあえて息を吐ききって声を絞り出すことの意味。

(それぞれの年齢で、今現在の自分の声と 向かい合う意味、声には自分史が映し出されている)

そのことを知るためにも、今しばらく声を出しながら自分の肉体と向かい合う勇気を 私は持ちたいのである。それはこの年になるとわかるのだが老いてゆくにしたがって必然的に声は出なくなってくるからである。

いつまで声が出る(出す意識の発露)のかは私にもわからない。ごく普通に歩ける、声が出るなんてことが極めて大切で重要なことであり、当たり前のことが実はまったく当たり前ではない、という深遠なる気づきにもつながる。

人はある種の負荷をかけないと、自分という器の魅力も なかなかに見つけにくい。私がかろうじて今を生きられるのは、これまで出会ってきた記憶に残る先生たちに、いろんな面を引き出してもらえたからだと思う。

人は万物に出会って、自分で殻を破らないと新しき自分はきっと見えてこない器なのだと思える。チャップリンが言うように勇気をもって 、あとはやるもやらぬも己次第だと思える。





1 件のコメント:

  1. 福山 尾崎23/3/15 4:04 午後

    こんにちは ご無沙汰しています。
    4/4の発表会を拝見させて頂こうと思いますので、
    二人分の席の確保をお願いします。l
    あまり様子が想像できませんが、楽しみにしています。

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